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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【アマパー編】=《3》=「移住政策は調査不足」=第1回マタピー移民=尾形慎也さん=人生変えた出会い

ニッケイ新聞 2009年10月29日付け

 「文句いう訳じゃないけど、はっきり言って調査不足。送り出した日本、受け入れたブラジル両政府が本当のことを言わなかった」
 個人的な意見としながらも、アマパーへの移民政策を、そうはっきり言い切るのは尾形慎也さん(73、福島)。
 マカパー第1回移民として、父孫三(90年に86歳で死去)、母辰子さん(95年に89歳で死去)の3人で入植。18歳の一人息子だった。
 「父は電気技師として満州、樺太、台湾で勤務していたので、外地には慣れていたし、新天地を求めてアマゾン移住を決めたのでしょう」
 マタピー移民はゴム栽培のために導入された。「だけど…ゴムは湿地帯に生えるもの。マタピーは水がないんですよ。その上、入植地の入り口―精米所や運営事務所、病院などもあった場所ですが、その地名はテーラ・フェーホ(鉄の土地)と言われるくらい鉄分が多く、栽培に適していない。その上、永年作物とはいえ、ゴムは植えて採れるまで10年はかかるんですからね」
 しかし、それに気付いのは後年になったからだった。
 「7年間は無我夢中でした。米、ゴム、養鶏、何でもやりましたけど、労働者に給料払ったら、トントン。みんなすぐにトメアスーやブラジリア、サンパウロに出ていきました」
 言葉の分からない移民らと受け入れ側だった直轄政府を繋いだのは、戦前にパリンチンスなどに入り、ジュート(黄麻)の栽培・指導に従事した日本高等拓植学校の卒業生(高拓生)らだった。
 「三人の高拓生が私たちが最初に泊まったバハコンを作ったり、受け入れ態勢を作ってくれた。けど通訳はするけど、指導はしない。アマゾンに長くいる彼らは、マタピーが農業に向いていないことを分かっていたと思うけど、物を言う立場になかっただろうし、言ってどうなるわけでもなかったでしょうしね」と推察気味に話す。
 25歳になり、行く末に悩んでいた頃、アマパーでパレドン水力発電所の建設が始まったことを聞く。全くあてもないまま、工事現場へ運ぶ砂の採取場に早朝、自転車を走らせた。
 カフェを飲んでいる労働者に建設現場まで行きたいことを伝え、トラックの荷台に乗りこんだ。
 拙いポ語と身振り手振り。仕事をしたいという意志は伝わり、人事課長を通じて技術部長と会うことになる。
 「他の州での仕事を紹介してくれたけど、両親がマカパーにいるわけですからね」。結局、同現場の測量技師の助手に。
 その後、建設用コンクリートの強度を測定する実験所の手伝いをすることになる。
 「ロシア系の監督がいい人でね。色々と技術を教えてくれて、引き継ぎの時も私が残れるように便宜を図ってくれたんですよ」
 その後、関係者に真面目な仕事ぶりを見込まれ、サンパウロの土木技術研究所などに約一年派遣された。
 35歳のとき、コンクリートのテクノロジスタとしてパラー州のツクルイ発電所で10年間勤務、両親もマカパーから呼び寄せた。
 87年には、ポルト・ベーリョのサムエル発電所に移る。「最低給料の27倍貰ってました」
 南マットグロッソやイラクでの仕事の話もあったが、サンパウロの知り合いから、日本での仕事の話を聞く。デカセギブームを迎える直前の89年、日本へ向かった。
 91年には、妻マリアさんを呼び、群馬や石川県で働いた。クリチバで就学中だった娘ベナイアさん、息子慎司さんに仕送りを続けた。
 94年に帰国、昔の仕事仲間に誘われ、セアラー州の灌漑工事に携わる。02年に引退、マリアさんの郷里であるマカパーに30年ぶりに〃帰郷〃。現在、マリア、ベナイアさんと3人でのんびりと暮らす。
 「ブラジル人だけの世界で、私がミスすれば、『ジャポネスがやった』ってことになる。それが頑張る助けになったかも知れませんね」。日本人としての誇りは忘れなかった。
 「だけど、あの時建設現場でポルトガル語もロクに話せない日本人をよく使ってくれたなあ、と。もし、追い返されていたら、どうなっていたでしょうね」。
 作業員から貰ったコーヒーの琺瑯引きカップ、ひんやりと濡れた地面、草むらに隠したため錆だらけになった自転車―。
 人生を変えた半世紀前の光景を尾形さんは、今もはっきりと覚えている。 (堀江剛史記者)

写真=尾形慎也さん