ニッケイ新聞 2009年10月30日付け
「1946年に今の北朝鮮から、38度線を越えて一カ月歩き通しで引き揚げて、無一文でしょう。学もないし、日本に基盤がないから、将来に希望がもてなかったですよね」
1954年の第2回マタピー移民、柴山満義さん(76、京都)は、そう移住時の思いを振り返る。
父八百三さん、長兄真蔵さん(当時29)を頭に、末弟保樹さん(同11)の6人兄弟。母チヨさんは終戦の年に亡くなっていた。
ベレンから船で3日かかって着いたマカパーの町(当時3万人に満たなかった)を、長女だった古賀須美枝さん(73)は、「草ぼうぼうでね。町っていう町じゃない」と印象を語る。
マタピーに着いて間もなく、農務局からゴムの苗を渡された。しかし、「お金になるのは、15年後」と聞いて、多くの移民が愕然となった。
「見込みがないってことで、ほとんどがすぐ出ました。お金のあるうちにってことでね。サンパウロやパラナに行ったようだけど、私たちの家族は兄弟が多かったし、稼動力があったから」と須美枝さんは、留まった理由を話す。
「土地は4町歩もらいました。だけど到着した時期に雨が降って寄せ焼きに3、4カ月かかった。うまく燃えず、肥料になる灰ができないから米もなかなか育たないんですよ」と柴山さん。
完全に送り出し時期の調査不足だった。移民らは、アマゾニア銀行の融資に頼った。
「マカパーに出て、もらった融資で食料品買うことが日課のような状態でした」(柴山さん)
須美枝さんは当時の生活を「ひどいと思ったことはない」という。「だけど、マラリアはみんな死に際まで行った。ここじゃおられないって出ていった人も多いですよ」と続ける。
マタピーまで120キロ。移住地にも簡素な病院はあったが、病気になることが最大の恐怖だった。
週に2回、移住地と町を往復する連邦政府の唯一の交通機関だったカミニョンで農作物も出荷した。家族の誰かが一緒に乗り込み、町で一軒ずつ回り、売って歩く生活を続けた。
そんなおり、柴山さんは、53年に第1回移民5家族が入ったファゼンジーニャ移住地で、現金収入があることを聞いた。
政府直営農場で働いていた第1回移民の構成家族、大屋昇、大石宏さんを訪ね、半年ほど一緒に働いた。「野菜作ってメルカドに出荷する。最低給料をもらいながらね」
その後、二人は川沿いの土地で野菜作りを始める。市内で中央市場にも近く、出荷が容易なことが魅力だった。続いて柴山さんも土地を購入、マタピーから弟、昇靖さんを呼んだ。
「トマトがあたってね。船でベレンまで出荷したこともありますよ。あの頃はかなり儲かったよ」。58年には家を建て、土地も増やし、トラックやトラクターも購入した。
その話を聞いた移民らが続々と移住地から転耕してきた。コウベ、アルファッセ、バタター。
日本人が作るそれらの野菜は、現地人たちの食生活を変えた。後にこの土地は、バイシャーダ・ジャポネッサ(日本人の低地)と呼ばれるようになる。(つづく、堀江剛史記者)
写真=かつて「バイシャーダ・ジャポネッサ」と呼ばれ、日本移民が農業を営んだ川沿いの土地。現在は住宅が立ち並び当時の面影はない