ニッケイ新聞 2009年10月31日付け
「トマテなんかもね、青枯れ病を防ぐために自生するジュルベバ(ナス科の植物)を植えて、それに接木するとよくできるんですよ。一日に500キロを収穫したこともありました」と柴山さんは、当時の景気を振り返る。
家族がマタピーから移ってきた。須美枝さんもその一人。
「10家族くらいいましたよ。それまで野菜はなかったから、1週間もしないうちに言い値で飛ぶように売れました」。1960年には古賀軍治さん(03年に70歳で死去)と結婚。ブラジリアから60キロ離れたルジアーニ植民地にも行ったが66年に、再びマカパーに戻った。5人の子供にも恵まれた。
柴山さんは、新たな土地を目指し、ベレン郊外で農場を開くが、「借金を作っただけ」。再度アマゾン川を越えた。
「野菜作りは良かったけど、〃土人〃たちも作り始めたから、70年代には過剰気味になって、半分は捨ててました」
須美枝さんはかぶりを振って続ける。
「もう何でもかんでもブラジル人が持っていくから、途中から嫌になってね。警察? ダメダメ。現場を押さえないといけないし、捕まえてもすぐ出てくるし。仕事が終わったら、草のなかにエンシャーダとかテルサードとか隠してましたよ」と苦笑いする。
その頃になると、耕していた土地に家を建て始めるブラジル人も出てきていたという。
90年頃、日本移民が築いた「バイシャーダ・ジャポネッザ」は州政府から接収されることになる。
「川から300米はブラジル海軍の管轄とか言われてね」(須美枝さん)「耕作権はあっても地権をもっていなかったからね…」と柴山さん。
日本人らは長年耕作した土地を出ていかざるを得なくなり、柴山家も92年には完全に営農を止めた。
その頃、柴山さんの長男エドゥアルドさんが日本にデカセギに。その後、在日ブラジル人社会を対象にしたコミュニティーペーパー「Folha Mundial」を発行したため、柴山さんも訪日、資金援助などを行ったが、4年ほどで帰国した。
須美枝さんは、94年に移住以来の初帰国を果たす。
「いいとも思わなかったね。親戚は知らない人ばかりだしね。ここの方がのん気でいいですよ。苦労したけど、住めば都っていうでしょう」と笑う。「だけど、食事だけは日本食がいいね」
現在は、バールを営む3女スマコさん夫妻と同居、朝の後片付けが須美江さんの仕事だ。
「仕事しないとね。逆に元気すぎて困るのよ」
柴山さんは、妻エウザさん二人暮らし。3人の子供は市内に住む。
最近、「二つの祖国」(山崎豊子著、太平洋戦争により、アイデンティティに悩む日系二世らの物語)を読んだ。
「アメリカの移民は酷かったんだなあ、と。ブラジルでは差別を受けたことないですからね。時々、日本にいたらどうしていただろうって思いますけどね・・・。まあ、今は好きなことしているからいいんじゃないかな」そう言って笑った。(おわり、堀江剛史記者)
写真=「70の手習い」でギターを始めた柴山満義さん(右)と、「元気過ぎて困ってる」と笑う須美枝さん