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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2009年10月31日付け

 宮城県は、昔から海外への興味があったらしく、明治の始めには登米郡米川村の人物が船を雇い百数十人と共にカナダに密航し鮭を獲るのに成功し、新田次郎の「アラスカ物語」の安田恭輔も石巻出身と移民史を飾る人物が多い。歴史を遡れば1613年の伊達正宗の慶長遣欧使節がある▼サ・バラティスタ号を建造し支倉常長ら180余名を欧州に派遣し、スペインには現地に留まった伊達藩士の子孫らが「日本」を意味する「ハポン」の姓を名乗り今も元気一杯だそうな。尤もー鎖国令などもあり、帰国後の支倉はあまり脚光を浴びることもなく静穏な余生だったらしいが、日本人で初めて世界を一周したのも伊達藩の船乗りなのである▼フロリアノポリス港へ「若宮丸」の津太夫ら4人が寄港したのを知る日本人移民は多い。寛政5年(1793年)に石巻を出港した米沢屋の「若宮丸」が江戸に向かう途中で遭難し、船は漂流を続け北海道北方の島に漂着しロシアに保護され皇帝アレクサンドルに謁見を許されている▼こんな経緯があり、ロシアの船で帰国する途中でサ・カタリーナに錨を降ろし太平洋から長崎に着いている。これについては鈴木南樹も書いているが史料が乏しいと嘆いている。ところがー宮城県が県人移民ブラシル100年を綴った「赤い大地を拓く」にも、この「若宮丸」のことが記載され真に面白い。笠戸丸より2年も前に「オ・ジャポン・エ・サンパウロ」を開いた藤崎三郎介と後藤武夫の話や戦後では故高橋祐幸さんがブラジルからの留学生をシュラスコで歓迎とー宮城県人は日伯友好の先駆けだったの思いを強くする。(遯)