ニッケイ新聞 2009年11月12日付け
アマゾン各地で日本人移住80周年式典が行われたその週末、遠く離れたサンパウロ州グァルジャーに集った人たちがいた。奥アマゾンのまた奥、ブラジル最西端のアクレ州にあったキナリー移住地の出身者たち。入植50周年になる今年、3回目となる集いを1泊2日で開き、30人あまりが訪れた。13家族の入植で途絶え、大半が数年で転出した同地。家長の多くはすでに亡くなり、集いに出席したのは母親と、かつての子供たちだった。海の見えない移住地で過ごした日々を、海辺の町で思い出す。
州都リオ・ブランコから約30キロ、ボリビア国境から90キロに位置したキナリー。連邦直轄植民地として開設され、59年6月に第一陣6家族44人、8月に7家族47人が入植した。
ゴム栽培が目的だったが、移住者の多くは野菜・雑穀栽培などに従事した後、数年で転出。入植13家族のうち、現在は3家族が同地に暮らす。
当時2万人ほどだったリオ・ブランコの人口は現在約30万人。後に国内から移り住んだ人もあり、同州では現在約200人の日系人が暮らしている。
海辺で祝った50周年
50周年の今年、当初はキナリーに集まることも計画された。しかし航空券の問題などから今年は断念、代わりに、海を見る機会の少ない内陸に住む人たちのため海辺の町に集うことにした。
9月26日の朝、会場となった民宿「カーザ・デ・ベラネイオ斉藤」に出身者たちが集まり始めた。サンパウロ市、近郊だけでなく、今もキナリーに住む浜口カズ子さん(82、熊本)や、ポルト・ベーリョやマナウスから訪れた人もいる。
サンパウロ市・仏心寺の岡島典文導師、西村勇心僧侶により物故者の慰霊法要が営まれ、一人一人が焼香。世話人の一人、坂野政信さん(63、神奈川)は「小規模な移住地でしたが、今でもこうして多く参加して祝え、嬉しく思います」と再会を喜び、「各家の事情で転住しましたが、同じ釜の飯を食った懐かしい親戚のようなつながり。明日午後までくつろいでほしい」と述べた。
50周年記念のケーキをカット。参加者たちはあちこちで、旧知の仲間との話を楽しみ始めた。
2カ月のアマゾン上り
第一陣を乗せた「あめりか丸」は3月3日に神戸を出航し、4月9日にアマゾン河口の町ベレンに到着。サンパウロへ向かう移住者と別れ、それからリオ・ブランコに着くまで2カ月。長い船旅が始まった。
移住者が乗った「クイアバ号」には、セアラーなど北東伯からの国内移民も多く乗っていた。
食料や薪の調達、食料として船倉に積んでいた牛の草取りなど、あちこちに停まりながらの船旅。病気で死亡した国内移民の子供を埋葬するため停まることもあった。
マナウスからソリモンエス川、支流を遡上したが、乾季で船が通れなくなり途中で小さな船に乗り換え。アクレ川に入るとその船でも通れなくなり、再び底の浅い船に乗り換えた。その頃には移住者の間にパラチフスが流行していた。
日本を離れて3カ月あまりが過ぎた6月14日、船はリオ・ブランコの港へ到着した。乾季で水位が下がり、入植者たちは2、3メートルの川岸をよじ登ってアクレの地を踏んだ。
そこに、一人の日本人が待っていた。ペルーに移民後、アンデスを越えてブラジルへ入り、1920年に同地へ入った古野功さんだった。
〃最果て〃の地の日本人
40年近く唯一の日本人としてリオ・ブランコで暮らしてきた古野さん。「古野です」と一行に自己紹介し、同地へ住み着いた経緯を説明したそうだ。「ペルー下りで仲間から脱落して、這うように皆の後ろをついていったそうです」、当時17歳だった川田信一さん(68、長崎)は振り返る。
40年ぶりに見る同胞を前に、古野さんは涙を流していたという。当時13歳だった坂野さんは、「言葉が出てこない感じでした」と思い出す。「日本人がいないところに僕らが来て嬉しかったんじゃないか。スペイン語、ポルトガル語交じりの日本語で懸命に言葉を選んでいました」
古野さんはその後、キナリーに土地を得て農業にも従事し、87年に死去した。
第一陣到着から2カ月後の8月10日、第二陣7家族が到着した。同地への入植はそこまでだった。(つづく、松田正生記者)
写真=50周年のケーキを切る浜口カズ子さんとキナリー出身者の皆さん