ニッケイ新聞 2009年11月14日付け
母親たちの思い
「悠子ちゃん?」―-。
夕方に到着した西沢イチさん(80、長崎)は、自分にあいさつする川田悠子さんを見て驚き、そして抱き合った。悠子さんが9歳でキナリーを離れて以来、46年ぶりの再会だった。
今もアクレに暮らす西沢さん一家は、今では同州の特産物となったアメンドイン(落花生)栽培の先駆者だ。
大水久雄さんの父や西沢さん一家などキナリー入植者によって始まった同地のアメンドイン栽培。日本から種を持参したが「来てすぐ道の脇に植えたら、外人が皆抜いて食べてしまって」とイチさん。一年後から畑に植えたが「最初は誰も知りませんでしたよ」という。現在はリオ・ブランコに住み、他の農家からも殻つきを買って加工する。
「虫に食われて懸命に働いてね。でも自営農の楽しみがありましたよ。皆ざっくばらんで、堅苦しいところのない間柄でした」と移住地の生活を振り返るイチさん。「この20年ぐらいで旅行できるようになったけど、それまでは子供も小さいし、仕事ばかり。今ようやく気分的に落ち着きました」と語った。
この日訪れたもう一人の母親、浜口カズ子さんは今もキナリーに住む。
最初はドミニカ移住を計画していたが、叔父がブラジルにいたことから予定を変えたという。「皆さんたいへんな思いをした」
山焼きなど慣れぬ仕事に苦労もした。「それでも楽しかったですよ。戦後苦しい時を過ごしていますから」と明るい。「自営農で、失敗しても自分たちでやれる。昔の人のような苦労はなかったですよ。土地も良くて、何年も無肥料でできた。何が当たるか楽しみでしたね」。ゴムの値下がりもあって70年代から養鶏を始めた。現在は入植当時からのロッテで孫が牧場を経営する。
50年は長かったですか?―そう尋ねると、「そうは思いませんよ」という答えが返ってきた。「家族一緒で、困ったこともなく食べることができた」。ただ、「子供は、学校なんかで苦労したかもしれませんね」
離れていく入植者を見送ってきたカズ子さん。「寂しかったけど、仕方ない。皆それぞれの生き方があるから」と話す。そして「こんな年までビアージできるとは思いませんでしたよ。家族のおかげです」と笑顔を見せた。
それぞれの50年
契約期間の4年が過ぎると、入植者は少しずつ移住地を離れていった。
中には4年を待たず同地を去った家族もあった。後に、サンパウロに住む一家を谷指導員が探しに来たことがあったという。「会わなかったことにしてくれないか」―父親はそう伝えた。谷氏は帰っていった。
結婚後にキナリーを出た篠木敏夫さんはマラジョー島近くの島で牧場を営もうとした。しかし、「増水期には半分が水に浸かる」環境から再び移転し、サンタカタリーナ州のラーモス移住地へ。日本でも働き、現在はスザノに住む。
「両親は骨を埋める覚悟でした。当時は牧場も手がけていて反対されたけど、説得した」という敏夫さん。「出た後は全部一から。人様以上に苦労させてもらったけど、今実ったかと思います」。
川田信一さんは入植5年でポルト・ベーリョのトレーゼ・デ・セテンブロ移住地へ移り、現在も同市に住む。
「学校時代は間違えたら消しゴムで消せた。でも17歳でアマゾンに入ってからは、全部ぶっつけ本番でその時の〃芝居〃を演じないといけなかったんですよ」。信一さんは50年を振り返る。「観客も、野次もない一人芝居で、唯一拍手してくれたのが妻でした。偉くも、金持ちにもならなかったけど、精一杯生きてきた」
集いが開かれる前の週、日本から一人の男性がブラジルを訪れた。国援法で帰国した岩中さんの息子だった。
帰国から47年で初めての訪問。リオ・ブランコに眠る両親の墓参に信一さんも同行した。当時世話になったブラジル人宅を訪れると、相手も覚えていたという。
▽ ▽
「来年は、行こうか」、和やかな会場で誰ともなく言い出した。西沢さんも「リオ・ブランコからコロニアまで立派なアスファルトになりました」と話すと、「行きます」と声が上がる。
集いの夜は、夫人らや大水さんの家族が腕をふるった食事を囲み、話は尽きないようだった。
食後、庭でくつろぎながら宮本さんが何気なく話し始めた。「キナリーでは、冷蔵庫を買うためにこの作物を、車を買うのに新しい作物って、開拓していました。皆がそうだった。あの頃は良かったなとも思います」
かつてのキナリー村は、セナドール・ギオマルジ市となった。ただ、今でもキナリーの呼び名で通じるという。
夜が更けようとしていた。「この集いを子供たちがどう理解してくれるか」、坂野さんは話す。「私らがいなくなっても、また子供たちの代で何かが生まれるかもしれませんから」。(おわり、松田正生記者)
写真=川田悠子さんとの再会を喜ぶ西沢イチさん(右)