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人文研=コロニア今昔物語=安良田済さん=「コロニア文学界における鈴木南樹、古野菊生、武本由夫の存在」=連載《中》=〃愛の狩人〃といわれた古野

ニッケイ新聞 2009年11月19日付け

 31年、南樹は所用で山形に里帰りをする。帰る以上、おたっつぁんに会って告白しないと死にきれないと思い、もう一人の幼馴染、千代子に手紙を書き、会えるよう取り計らってもらった。
 そしていよいよ再会のその日を迎えた。当時は男女が手と手を取り合うことはなく、頭を下げるくらいで応対した。南樹は当時、53歳だったので、昔のように心臓がドキドキして話せないこともなく、「柿をくれた時から愛しており、死ぬまで愛しつづける」と言うとおたっつぁんは「知らなんだ」と涙を流しながら、詫びるように語ったという。
 南樹がブラジルへ帰る時、おたっつぁんが一通の封筒を渡そうとしたが南樹は「絶対受け取らん」と言い張るも、「受け取ってくれんと一生辛い。何も言わず受け取ってくれ」、などと押し問答が続き、一瞬、おたっつぁんの小指が南樹の手に触れ、南樹の体に電流が走り、世の中真っ白になり、思考も停止した。気が付いたら封筒を握りしめていたという。
 それからブラジルに帰り、「小指」という題で短歌を100種以上作っている。安良田さんは、「彼の恋がどういうものであったかが推察できる。彼以上に本当の恋をした人はコロニアにはいないだろう」と締め括った。
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 続いて、古野菊生(以下、古野)の話に移った。30年代文学界には一匹狼タイプが多く、何某派や結社などは形成されにくかったが、伯剌西爾時報の文芸欄を担当していた徳尾けいしゅう氏と古野、武本由夫がサンパウロ地方の同好者を集めて会議を重ね、「地平線」を刊行。しかし、宣伝不足のほか、経営の経験もなく、農村部に多い会員から会費も集まらず結局消滅した。
 32年、伯剌西爾時報社が短編小説の懸賞を始め、文芸界を刺激、500本の作品が集まった。安良田さんは、「今、募集しても15本くらしか集まらないだろう」と述べ、「バルガス政権時、ナショナリズムが進行しなければコロニア文芸も違うものになっていたかも」と語った。
 その後、古野が伯剌西爾時報社の「こどものその」の編集をしていた頃、古野が添削する一人の女性がいた。その女性は「地方で一生鍬を曳いて終わるのは嫌だ」と言う。立派な詩で字も綺麗ということで、古野は「是非写真を送ってくれ、世話をしたい」と女性に伝え、さらに、「助手が必要だ」と社長に頼み込み雇うことに。
 二人の件は社内でも噂になり、半同棲状態で過ごし、やがて内縁の妻になった。男にも女にも対応が柔らかで魅力的だった古野は「愛の狩人」と言われていたという。
 その後、71年にはリオの日本大使館へ勤務。引退後は日本へ帰り京都外語大で教鞭をとり、ポ語を教えた。
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 続いて武本由夫(以下、武本)に話は移った。第2次大戦後、武本は古野と共にモジ郊外にあった、田辺重之さんの養鶏場へ疎開する。百姓だけでは物足りない二人は短歌会を開こうとなり、仲間を募って第1回を武本宅で開催した。日本人は3人以上集まることや、日語を話すことを禁じられていた時代。危険を冒しながらも4年間続いた。安良田さんは「よほど文学が好きでないとできない」と語り、これが縁で38年の「椰子樹」創刊に繋がった。
 戦後、49年サンパウロにも活気が出てきた頃、古野はサロンを借り日語を教えていた。武本もペレイラで父兄会と共に日語を教えていたが、経費節約のため1カ所で教えることに。やがて51年、古野は農業雑誌「大地」を発行。農業記事のほか、文学の記事も含まれていた。販売数は順調に伸び、やがて発足した文協の機関紙「コロニア」を創刊、その編集に携わった。
 60年代、文学青年の前山隆が来伯、人文研や「コロニア」の編集を手伝っているうちに武本に文芸誌を出そうと進言した。「地平線」の失敗があった武本は断ったが、前山が武本の手を掴んで離そうとせず、とうとう根負けし、三つの新聞社に宣伝してまわったりして、試行錯誤ののち、「コロニア文学」が発足した。
 ただ、問題もあった。(つづく)