ニッケイ新聞 2009年11月20日付け
サンパウロ州立移民記念館の「移民ジャーナリズム展」記事で、最古のイタリア語新聞「Fanfulla」の名誉会長から最盛期8万部と聞き、そのまま書いてしまったが勘違いだった。同館出版物で確認したら、1907年にエスタード紙が2万部の時、1万5千部を記録したとあった▼同紙が創立した1893年のサンパウロ市人口統計を見ると興味深い。全13万人のうちブラジル人が5万9307人(45%)と半数にならず、残りは外国人。とりわけイタリア人が多く、なんと4万5457人(35%)。次いでポルトガル人が1万4437人(11%)と、旧宗主国人よりも圧倒的な存在感を誇っていた▼言葉こそポ語が普及したが、実はこの時代にイタリア系がサンパウロ市市民の生活基調を作ったといっても過言ではないだろう。有名なダンテ・アリギエリ校やスポーツクラブ「パルメイラス」も1911年年創立。笠戸丸移民到着当時には、すでに確たる基盤ができていた▼サンパウロ市ではブラスにナポリ県、ビッシーガにはカラブリア州、ボン・レチーロにはヴェネト州出身者が集まり、それぞれの地域社会を再現して故郷の教会を持ち込み、今もサンヴィット祭、アキロピッタ祭などが行われ、地域全体の行事として定着した▼リスボンに駐在した日本人外交官によれば、「ポルトガルでは挨拶でチャウとは言わない。明らかにイタリア語」と指摘する。「ポルトガル人の気質は真面目で地味、ブラジル人の陽気さはイタリア人に近い」とも。なにがイタリア系の影響とはっきり云えないぐらいまで、生活のあらゆる場面で自然に溶け込んでいることが、むしろすごい。 (深)