ニッケイ新聞 2009年11月28日付け
「農大生は自分一人になっちゃった。淋しいですよ」。現在も営農を続ける大竹秋廣さん(64、静岡)は、空港のそばにある瀟洒な自宅で、そう語った。
かつてはサンタレンから定期便があり、「農大関係者も行き帰りにこの家に寄ってくれたものです」。07年に廃止となってから、さらに訪問者は減ったという。
モンテアレグレと農大生との関係は深い。南米各地の移住地を視察し、農大卒業生らの引き受け先を探していた杉野忠夫博士(農業拓植学科初代学科長)は、1958年に同地を訪問。前年に設立された農業協同組合を受け入れ先に、と話をまとめた。
61年に由木尾峻、大竹末男の両氏が初入植。その後も次々と農大生が入植した。80年代にも実習生が訪れている。大竹さんは69年、北伯雇用青年移住枠で入植、組合員として働いた。
「工業高校で故郷の静岡は東海工業地帯。その歯車になるのもなあ、と思いましてね」
東京農大の農業拓植学科に進学。在学中に岸靖夫(04年、モンテアレグレで死去)、加藤和明(07年、サンパウロで死去)、大槻雄二郎(現在訪日中)各氏と共同農場経営の夢を語り合う。 岸氏は66年に入植、農場は70年に設立(80年に解散)され、加藤、大槻両氏も続き、大竹さんは、72年に参加した。
「あの頃は、毎日が宴会でしたよ」と懐かしがる。
当時、同農場を訪れた若槻泰雄氏は、著書「原始林の中の日本人」のなかで、「生活程度は高いし、彼らの気力も充実している」との感想を述べながらも、若干の危惧として、「モンテ・アレグレのもつ基本的な地理的不利をどう克服するか」と書いている。
大竹さんは、「一言で言えば、(モンテアレグレは)農業に適していない」とキッパリと話す。
その理由を、若槻氏の指摘同様、「遠隔地のため、市場への供給に経費がかかる。そのため利潤率も悪いし、様々な情報が少ない」と話し、「有利なことといえば、土地が良く、安いことでしょうか」と続ける。
かつては100家族以上が入植したが、現在残るのは15家族。そのうち、4家族のみが営農を続けていることも挙げる。
同書のなかで、戦前にアマゾン開拓青年団の副団長として、モンテアレグレに入植した平賀練吉は、「たばこと綿はわりにうまくいったのですが交通条件が悪いので運賃にくわれてしまって結局、食べていくだけでしたね」と語っている。
「道路の状態は40年前の方が良かったですよ」。大竹さんは、マカカ地区にある農場で過ごし、週に2日ほどモンテアレグレの自宅に戻る生活を続けている。
「わずか52キロだけど、片道1時間40分かかる。雨が降れば数時間」と話す。
同地が電化されたのは04年。ドイス・ガーリョス同様、多くの日本移民が入植したアサイザール移住地は今も電気が通っていないという。
そういった条件の悪さに加え、80年代のインフレ、ピメンタの国際相場の急落、90年代に入り、日本への出稼ぎブームなどで多くが同地を後にした。
妻紀子(みちこ)さんを85年に36歳の若さで亡くした大竹さんも出稼ぎも経験したが、モンテアレグレを終生の地と決めた。非日系のルシアさんと結婚、週末には、共に農場で過ごす日々を送っている。
レモン、オレンジなどの柑橘系、ウルクー(食紅)、ピメンタなどを栽培、農大の先輩でもある坂口陞さん(07年にトメアスーで死去)に学んだ森林農業(アグロフォレストリー)を実践している。
「農場を回ってね、成長を見るのが楽しみですよ。やっぱりものを作るのがいいですね」。
その話し振りからは、開拓に人生を賭けた多くの仲間を見送ってきたものだけが持つ落ち着きが感じられた。(つづく、堀江剛史記者)
写真=大竹秋廣さん