ニッケイ新聞 2009年12月2日付け
バナナの皮の草鞋、タイヤの草履で日々を過ごし、移住地から市街地へは週1回トラックが往復するのみ。それも雨季になると、頼りにはならなかった。
当時は移住地にダッジのトラックが一台だけ。高谷一家の運搬・交通手段は、75年にシボレーのトラックを買うまでの20年間、常に馬だった。
「本当にお世話になった。だからJICAの研修(74年度)で九州に行ったときに歓迎会で馬肉を出されたんですが、食べられなかったですよ」と和夫さんは話す。
「米、とうもろこし、みかん、マモンなんかをやりました。ジュートの種が儲かったので、数年来の借金を返せましたよ」と信夫さん。
この頃、評論家の大宅壮一がアマゾンを「緑の地獄」と呼んだことが波紋を広げた。
「コロニアが大騒動ですよ。みんな開拓に燃えていましたから」と続ける。
トメアスーで最盛期を迎えていたピメンタも栽培したが、根腐れを起こしたため、トマトに切り替えた。57年に創立していた農協の販売担当者として和夫さんがマナウスまで船で運搬した。
「あの頃、70年代のマナウスの人口は25万人くらいだったかな。今は180万。特にこの10年は変わりましたね」と和夫さんが言えば、信夫さんが、「それがモンテアレグレは一つも変わっていない」と引取る。
「電化は早かったんですよ。だけど道路は当時のまま。政府のやることはチグハグなんですよ」。二人のため息は深い。
IBAMA(環境保護局)の営農者の立場を顧みない森林保護制度、時代に伴いシステムが変わるのに指導機関を置かないため取り残される僻地農業―。
半世紀以上、過酷な状況のなかで踏ん張ってきただけに、政府に対する批判の口調は自然に厳しくなる。
そんな二人が今も感謝するブラジル人がいる。
「トルコ? シリア系だったのかな。デメントロ・アントニオさんって商売人のブラジル人がいてね。店の商品をある時払いの催促なしでね。彼がいなかったら、今ここに住めてない」と声を揃える。
信夫さんは92年、出稼ぎで日本に行き、4年間滞在した。帰国後に肺ガンが発見され、治療を続けている。
「マナウスにいる子供が一緒に住もうって言うんですよ。本当はここに住みたいんだけど…考えてますよ」と苦笑いする。
和夫さんはJICAの研修先で行った紹介された幸子さん(59、長崎)と74年に結婚。6人の子宝に恵まれたが、現在、4人は日本、1人はマナウス、娘さん1人のみがモンテアレグレに住む。
「まあ…何しよるか分からんですよ」と自嘲気味に笑う。
「今は家族全員が集うのもマナウス。父の分骨もしたし、本家はもうあちらですよね。そろそろ老後のことも考えないといけない」と、信夫さん同様にマナウスへ居を変えることを考えている。
83年に市街地に移り、現在は卵の販売や工事用の砂利の仲買などを営みながら、市街地から約10キロの場所に130町歩の土地を購入。豚や羊などの家畜を育てながら、様々な栽培を行っている。
「子供たちは戻ってくるかも分からないし、ここで好きなことをやっていけたら、いいと思っているんですけどね」。そう絶ち難い〃古里〃への思いを覗かせた。
「モンテアレグレでは五十人くらいの日本人が亡くなっている」と信夫さん。「そのうち三十人がテレビを見る前の開拓時代。もちろん自殺した人もいる。だから、この二年間くらい仏様にお参りしてますよ」と穏やかな心境を語った。
モンテアレグレ2次移民として53年に入植、庭いじりが趣味だという妻寿美さん(65、群馬)とのんびりした2人暮らしのなかで、昨年から俳句を始めた。
是非、最新作を―と請うと、「先生がいないから」と照れながらも、『今様は エンジンつけた 丸木舟』と披露してくれた。
(つづく、堀江剛史記者)
写真=高谷和夫さんと花嫁移民の妻幸子さん