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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【モンテアレグレ編】=第7回=悪路、移住地への道は今も=入植3カ月で命絶った農大生

ニッケイ新聞 2009年12月5日付け

 翌朝、アマゾン川沿いに立つ小さな市に出掛ける。野菜などの種類はサンパウロと比べるべくもないが、見たこともない薬草や魚が楽しい。
 「キュウキュウ」と鳴き声を立て、箱のなかでうごめくアカリをじっくり吟味する和夫さんによれば、多少灰色がかったものが美味。死んだものは味が極端に落ちるので活きのいいものを選ぶことが肝要だという。
 雨季の11、12月が最も脂が乗り、日本移民の間では、卵の塩辛が珍味として作られるようだ。1匹2レアル。10匹ほど買い、車のトランクのイゾポールに入れ、一旦自宅に戻る。
 車をピックアップトラックに乗り換え、古代壁画のある奥地への出発前、近所で遊んでいる子供たちに声を掛ける和夫さん。頷いた少年少女3人が荷台に乗り込んだ。
 一路、市街地を出ると、すぐに赤土の道となり、サバンナのような風景に変わる。
 「そういえばここらへんですよ。農大生が自殺したのは」和夫さんが思いだしたように言う。
 『東京農大卒業生アマゾン移住50周年記念誌』によれば、モンテアレグレに入植した最初の農大生の1人、由木尾峻氏のことだ。
 トラックを横転させ、荷台に乗っていたブラジル人を死傷させた事故を起こしたことを気に病み、消息を絶った。
 「総出で探したんですよ。数日後、ウルブーが森の上を回りだしてね。あそこだ、と」。入植後わずか3カ月目の悲劇だった。
 モンテアレグレへの農大生受け入れを決めた杉野忠夫博士(農業拓植学科初代学科長)はひどく嘆き、由木尾氏の墓の隣に分骨するよう遺言を残したという。
 左右の風景は一転、ジャングルに。茅葺きの家があり、ときおり通学バスともすれ違う。
 進行方向に見えた水溜りが車が進むにつれ、大きくなっていく。20メートルほど先まで冠水しており、深さも分からない。
 「やっぱり。数日前まで雨が降っていたからね。彼らに来てもらって良かったですよ」
 荷台から降りた少年らが無邪気に笑いながら、水溜りに入っていく。中間あたりで膝まで水に使つかった少年が笑顔で手招きする。アクセルを踏み込む。水の中を走っているような感覚だ。 
 このような水溜りが数カ所続く。視界は両側の森に遮られ、道自体もかなりの悪路。開拓当時の交通の不便さを想像する。日本人入植地への道は、当時も現在も同様だという。
 慣れたもので和夫さんは、巧みにハンドルを切っていく。昔は移住地を往復するトラックの運転手をしていたこともあるようだ。
 「一度、雨のなかで車がはまって動かなくなって大変だったですよ」。
 市街地を出て、1時半ほどで、壁画がある丘の入り口に到着した。
 「身近なアマゾン」(松栄孝著)によれば、この古代壁画は、アマゾン関係の調査も行うルーズベルト研究財団に発見され、約1万2千年ほど前のものとされているという。同様の壁画が同じ時代に描かれているポリネシアにもあることから、古代史研究家の注目されているようだ。
 壁画があるという丘の岸壁を見上げるが、草木に覆われ、何も見えない。
 「ヴァーモス!」と笑顔で走り出す少年らに続いた。
(つづく、堀江剛史記者)

写真=壁画のある丘へ向かう道は、相当の悪路だ。日本人移民らはこうした道に泣かされた