ニッケイ新聞 2009年12月16日付け
先月6日に急逝したサンパウロ人文科学研究所の所長だった田中洋典氏(享年76)を偲ぶ会が、13日に仏心寺であった49日法要後に行われた。スザノ市、学生時代に活動したピラチニンガ文協、ブラジル日本移民史料館、サンパウロ人文科学研究研を中心とした友人ら約100人が出席。それぞれが故人との思い出話を披露し、悲しみを新たにしていた。
発起人で、長年交遊があった大浦文雄氏(85、スザノ在住)が司会を務めた。
田中氏の後任として、人文研所長に就任した鈴木正威氏(77)は、田中氏が在任中に進めた奨学制度の設置、講演会の実施を評価、「企画、調整、地方への出張までこなし、軌道に乗っていた矢先だった。遺志を継いで、改革に注力することを今日、御霊に誓った」と弔意を述べた。
汎スザノ文化体育協会会長の森和弘氏(79、二世)は、「市の職員として、3人の市長に仕え、町の発展に寄与した」と話し、『千の風になって』の歌詞を引き、「我々の仲間は墓にはいない。風になって飛んでいる」と話した。
絶筆となった連載エッセイ「移民航海物語り」を寄稿していた『ブラジル経済報知』の田村吾郎代表は、故人と親交が厚く、ほぼ毎日昼食を共にし、倒れた日も一緒だった。
「腹が立った。勝手に逝きやがって…。人文研から連絡があったときも『バカヤロー』と言った。それだけです」と涙を堪えた。
小川彰夫氏(67、二世)は、「日本語や日本文化に詳しく、〃変な二世〃だった。人文研を愛し、会うときの話題はいつも日本文化やコロニアのことだった。彼がいなくなって淋しく思う」と嗚咽まじりにその死を悼んだ。
工業学校時代からの友人だった山内淳氏(78)は7年間、同じ学び舎で過ごした。「非常に穏やかで静かな学生」と当時の印象を話し、「陸軍予備士官になってサーベルを提げた姿を羨ましくも誇りに思った」と振り返った。
戦前二世が活動したピラチニンガ文協主催の交流活動「キャラバン隊」での座談会では、「日本語が達者で、頭の固い一世ともやり合っていた」と当時を懐かしんだ。
「文化面でも『楢山節考』『山椒太夫』を演出し、サンカエターノ劇場を満員にした。あの頃を思い出すと今でも感激する」と言葉を詰まらせた。
同じくピラチニンガ文協で活動を共にした渡部和夫氏(73)は、「会報『ピラチニンガ』の挿絵を彼が担当し、イラストの才能も見せた。当時から、一世、二世、準二世の違いなどに関心が深く、人文研での活動を期待していたところだった」とその死を惜しんだ。
文化人類学者で人文研ともゆかりが深い前山隆氏からの弔辞(19日付け本紙投稿欄『ぷらっさ』に掲載予定)を石崎矩之氏が代読した。
お互いに日本語とポルトガル語の違いを教え合っていたという大浦氏は、「ある時、『末文』をポ語で何というか聞いたとき、『posfacio』という答えがすぐさま返ってきたことを思い出す。今まさに、末文を読んでいるような気持ち。酔態も白髪の1本も見せず逝った。これから時々、『洋典が生きていたらなあ』とつぶやくだろう」と朗々と語った。
最後に、于武陵の漢詩「勧酒」の井伏鱒二の名訳を引き、「花に嵐の例えもあるぞ さよならだけが人生だ」と締めくくった。
参加者らはそれぞれの話に静かに耳を傾け、田中氏のありし日を懐かしんだ。
妻の千代子さん(73)は、「みんなに集まってもらって、(主人も)喜んでいると思います」と瞼をハンカチで拭っていた。