ニッケイ新聞 2009年12月17日付け
サンパウロ市在住の上地マツさんが今月11日、満106歳の誕生日を迎えた。今年で在伯85年。夫を早く亡くし、女手ひとつで5人の子供を育てたマツさんは現在、息子一家、孫やひ孫に囲まれ静かな老後を送っている。13日にイミリン区の自宅で開かれた誕生日パーティーには60人の家族が訪れ、「ばあちゃん」の健康を祝福した。これまでコロニア最高齢だったのは、2007年7月に108歳で亡くなった浅見重平さん。マツさんは現時点で、ブラジル在住の一世としては最高齢者と見られる。
「もう年も数えないですよ。指は10本しかないからね」とにこやかに話すマツさん。数えで107歳の今も元気で、「医者に行っても、顔を見て『どこも悪い所ないだろ』って言われますよ」と笑う。
沖縄県の羽地真喜屋で生まれたマツさん(旧姓・与那嶺)は、1924年6月にシカゴ丸で着伯。21歳だった。
マツさんを呼び寄せた同郷出身の夫、上地寛吉さん(故人)は1918年、19歳の時に若狭丸でブラジルへ渡り、マット・グロッソ州カンポ・グランデの鉄道工場で働いていた。マツさんは「当時は親父(夫)が金ないから、苦労するだけしましたよ」と振り返る。
夫妻はその後、サンパウロ州アララクアラ線のカタンドゥーバへ。同地で長男の進吉さん(83)が生まれた。そこから一家は奥ソロカバナ線アルバレス・マッシャードにあるモンテアルボン植民地へ土地を購入して入植した。
同地で約30年間農業に従事したが、ここで寛吉さんが51歳の若さで死去。47歳のマツさんと5人の子供が残された。
「カーザしたら子供がかわいそうだしね。男に負けんぐらい仕事しましたよ」と振り返るマツさん。女手ひとつで5人の子供を学校にやり、61年の正月、サンパウロ市のカーザ・ベルデ区へと移った。
借家暮らしを経て、70年ごろに現在の自宅を購入した。「縫い物、アイロン、いろいろやりましたよ」と進吉さん。夫人が早く亡くなり、マツさんが家で孫、ひ孫の世話をしたという。
その後長く日系企業で働いた進吉さんは、「父が早く亡くなって、僕らも若かったから、母は苦労したと思いますよ」と話す。マツさんが渡伯後はじめて日本を訪問したのは、73歳の時だった。
今も邦字紙読む=来月には初の玄孫
現在は4人の子供(一人は死去)、16人の孫、23人以上のひ孫に囲まれる。日本、カンポ・グランデに住む家族がいるが、それ以外はサンパウロに住む。来月には初めての玄孫が生まれる予定だ。
現在は進吉さんや孫、ひ孫らと暮らすマツさん。進吉さんによれば、食事は朝のカフェからきちんと摂り、野菜やごはん、汁物などが中心だという。
今も、次女の朝子さんが持ってくる邦字紙に目を通す。「白内障の手術をしてからは眼鏡なしで見ていますよ」と進吉さん。「普段は寝たり起きたりで、外には余り出ません。家の中では自由ですしね」。近くに住む弟さんと昔話を楽しむこともあるそうだ。
県人会カーザ・ベルデ支部の催しなどには、子供たちに連れられて時々出かけるという。また今年は、ひ孫が参加している琉球國祭り太鼓の10周年公演や、孫が出場したミス琉装コンテストなども見に出かけた。
13日の誕生日パーティーには、子供、孫、ひ孫やその家族など約60人が集合。パラベンスの歌を歌い、「ばあちゃん、ばあちゃん」の声が響く中、マツさんがケーキを切ると、大きな拍手が家中を包んだ。世代ごとにマツさんと記念撮影も行われ、いつまでもにぎわっていた。