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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【サンタレン編】=第2回=ベルテーラから退去勧告=ベレン総領事とも喧嘩

ニッケイ新聞 2009年12月22日付け

 日本政府が行った移民政策のなかでもベルテーラ・フォードランジア移民は、明らかな失敗に終わっている。
 1923年、アメリカはアマゾンへゴム生産に関する調査団を派遣。ヘンリー・フォード(米国の自動車会社・フォードの創立者)は、50万ヘクタールのコンセッションを得る。
 27年には、隣接地に100万ヘクタールを取得、大々的にゴム農園の造成を始める。タパジョス川を南に185キロほど遡行したこの一大ゴム生産地は、「フォードランジア」と名付けられた。
 後には、北方のサンタレン方面に「ベルテーラ」も創設され、両園あわせて400万本のゴムが植えられるが、戦後46年、フォード社がブラジル政府に払い下げたことから、政府直轄移住地となる。
 戦前、パリンチンスを中心にジュートの生産・販売に携わった辻小太郎は、ゼツリオ・ヴァルガス大統領に日本人移住の再開を直接交渉、52年から戦後移民が始まることになる。
 辻が設立した「アマゾニア産業開発会社」を受け皿に、1954年12月に6家族27人、翌年4月には、16家族105人がフォードランジアに入植。
 ベルテーラには、55年1月に61家族390人、55年4月に39家族253人が入った。
 ベルテーラに着いた生田一家は、飛行場の待合室を住居に構え、修道院の土地を借りて、野菜作りを始めた。
 「ボタンやゴムをつけたブラジャーなんかも作って、ブラジル人に売ってね。結構いいお金になったんですよ」
 高校まで出ていたハマ子さんはローマ字が読めたため、ゴム園の就労出席簿をつける仕事に就くことになる。
 移民らの大きな不満となったのは、日本での募集要項にあった「13歳以上は就労可能」との一項が、実際は18歳以上しか働くことができなかったことだ。幼子を抱えた家族は、やむを得ず18歳に満たない子供を働かせた。
 「帳簿をつけるのは私でしたからね。みなさんに感謝されましたよ」
 8人家族の生田家で働けたのは、父親の勇さんとハマ子さんだけだった。
 ゴムの採取には技術が要る。原始切り、本切り、半切りなどがあり、草刈りなどの整地に加え、いい木を選んで芯の薄皮を切らずに表面を傷つけないとゴムが効率良く採れない。
 慣れない日本人は苦労したようだが、勇さんは2週間の研修を受け、日本人で初めてゴムを採る資格を得、いち早く仕事に精を出した。
 生活にも慣れ始めた入植から約三カ月。家長会議が開かれる。
 辻から、「月給取りではなく、開拓に回ってほしい」との事実上の退耕勧告に、集まった家長らは怒り狂った。
 「そりゃあもうひどかったですよ。テルサード持って、暴れた人もいたって聞きました」
 日本人移民らが条件の違いを問題視したことが直接の理由とされるが、「現地労働者を圧迫する」というのが政府側の理由だった。
 「辻さんは、喧嘩せずに裁判したらどうか、とか言ってましたけど、責任者なのに、消極的な人だと思いましたよね」とハマ子さんは苦虫を噛み潰したような表情を見せる。
 移民らは、モンテアレグレ、ベレン近郊、グァマ、タイアーノ、サンタレン、アレンケール、アカラ、マナウス近郊などに散っていった。
 生田家族は最後の日本人家族として、8月10日にベルテーラを出た。岡田、千葉一家とともにアマゾナス川対岸にあるアレンケールに移る。
 「弟たちが学校にカノアで朝5時半にでたら、着くのは7時。大変ですよ。ジュートも最初の年は良かったけど、買うものは何でも高いし、売るものは安い」。
 56年、岡田家の3男慶典さんと結婚するが、生活は苦しくなっていく。その頃、日本人のパトロンが二重帳簿をつけていたことが分かり、「日本人が日本人を食い物にするのか」と詰め寄った。
 結果、アレンケールを出る。勇さんのゴム切りの腕が買われたこともあり、57年1月にベルテーラに戻ることになるが、59年8月頃から給料の遅配が始まったことから見切りをつけ、サンタレンで大衆食堂を始めた。
 その頃、サンタレン・クイアバ間のアマゾン縦断道路建設のため、駐在していた陸軍関係者への野菜供給を慶典さんが請け負い、「道路を作っているところに行って、野菜をテコテコで落としていた」という。
 一方、勇さんは町から離れたアマゾンの中で野菜を作り、カノアで通っていた。78年現在の土地を購入。82年、現在も営業を続けるレストラン「瑠美」を開く。
 勇さんがパーキンソン病を患ったこともあり、99年には「空気のいい」ベルテーラに再度戻り、民宿と食堂を営んだが、2005年ベレンで勇さんが88歳で亡くなってから、サンタレンを終の住まいに決めた。
 1973年―。サンタレン在住の18家族で日本人会(初代会長・辻小平、総務・生田勇)を作り、活動を始めた。
 ベレンの総領事が、モンテアレグレに直行し、同地日本人と接触を持とうとしなかったことがきっかけだという。
 「みんなが怒ってね。総領事は、『サンタレンは植民地がないから』って。じゃあ植民地に住んでなけりゃあ、日本人じゃないのかってね。本当にあの時は、腹が立ちましたよ」
 日本政府の杜撰な送り出しにより、ベルテーラで苦渋を味わいつつも、アマゾンで半世紀踏ん張ってきたハマ子さんは、そう気概を滲ませた。
 (つづく、堀江剛史記者)