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ロンドリーナ市制75周年=躍動する新都のいぶき=連載第3回=シベリア抑留の安中さん=親子2代で写真屋経営

ニッケイ新聞 2009年12月23日付け

 安中末次郎・裕(ゆたか)さん親子は2代にわたって、戦前はイグアッペ、バストス、戦後はロンドリーナの貴重な写真をたくさん撮影し、日本移民百年のうちの大半を占める80年分の記録を残している。その間、安中家は戦前にいったん日本に引き揚げ、裕さんはシベリア抑留を体験するなど激動の人生を歩んでいる。
 写真の一部、40年代から70年代かけて撮影された80枚が07年、大学教授が編纂してロンドリーナ市文化局の支援を受け、写真集「Revelacoes da Historia」として出版された。
 裕さん(83、北海道)は28年、両親と3人でイグアッペに移住した。まだ1歳だった。父・末次郎さんは札幌の彩光館で4年間丁稚奉公しておぼえた技術で、当時はまだ珍しい写真館を経営した。馬で植民地を巡り、当時の生活の様子を撮影し、写真帳として刊行した。
 当時ブラジルでは写真帳を作るのは難しかったので、わざわざ原板を日本に持って帰って刊行した。そのとき、生活に苦労していた兄の相談に乗った父は呼び寄せることにし、マリリア近くのベラクルスに入った。
 36年、綿やコーヒーで景気の良かったバストスに引っ越しをし、ここでも写真帳を作った。ところが38年に外国語教授禁止令が出され、子供の教育を重視した父の決断で、家族全員で帰国した。
 45年、裕さんは美唄市立病院のレントゲン技師として働いていた関係で、父の勧めで志願して衛生兵になり、樺太の陸軍病院へ送られた。8月15日の終戦当日、豊原の野戦病院に送られ、そこで玉音放送を聞いた。「戦争は終わった」とみなが軍隊手帳を焼いた。
 その一週間後、ロシア空軍の2機が、引揚げ者が大挙して汽車を待っている豊原駅前広場を空襲し大惨劇となった。「こんな酷い現場を見たのは初めてだった。なんで戦争が終わってからこんな罪のない人たちが酷い目に遭うのかと腹立たしい気持ちで一杯だった」。
 10月20日ごろ、ロシア船に載せられ、「いよいよ引揚げかと期待し南に行くかと思ったら、北だった」と深い失望を味わわされた。それからが地獄のシベリア抑留だった。「今でもあの時代だけは思い出したくない」と多くを語らない。
 48年10月21日に引揚げた。ちょうど丸3年、23歳だった。「親父は私が死んだと思っていた。何年ぶりかで食べたお握りの味の感動は今でも鮮明に覚えている」。
 ブラジルに残った叔父はパラナ州マリンバ近郊のマリアウバに移転し、コーヒーで成功していた。戦前とは逆に「こっちはすごい景気だぞ」と手紙で教えられ、今度は自分らが呼び寄せられた。戦後移住開始2年前の51年12月、家族11人で早々に再渡伯をした。
 裕さんは、すぐにロンドリーナ市でドイツ人経営のエストレーラ写真館に見習いとして働き始め、52年にそこを買った。以来57年間経営し、日系植民地の写真や開拓風景を採り続けた。中でも伐採した後の倒木が残る広大な土地にコーヒーを植え付けている様子を空撮するなど当時珍しい航空写真も含まれている。
 安中さんの写真館はセントロにあり、今ではすぐ近くにショッピングセンターがたつ。「息子が継がないので、去年写真館をたたみました。うちの向かいですよ」と名残惜しそうに自宅マンションから窓の外を指さした。
(続く、深沢正雪記者)

写真=穏やかな表情で昔を語る安中さん