ニッケイ新聞 2009年12月23日付け
「戦争を体験しているから耐えられたんじゃないですかね」
そう柔和な笑顔で移住当時を振り返るのは、矢野千津江さん(74、福岡)。
アマゾンに半世紀近く住んでいるとは思えない優雅な雰囲気を持つ女性だが、人は見かけによらないとはよく言ったもので、来伯以来重ねてきた苦労は大変なものだ。
千津江さんは、矢野勝大さん(78、福岡)と結婚、福岡県鞍手郡(現・直方市)で写真店を経営、長男直樹さんも誕生していた。
アマゾンに入植していた従兄弟で仲の良かった篤さんの誘いで、「アマゾンで写真屋をやろう」と一切合財の機材と共に、家族3人であめりか丸に乗り込んだ。アレンケールの第1回呼び寄せ移民。1962年2月にベレンに到着した。
「船内にトメアスーへの花嫁移民が12人、コチア青年が64人いたことを覚えています」
篤さんから聞いていたアレンケールの状況は全く違った。
「住んでいる人も少ない上、現地の人は写真は貰えるものだと思っている。サンパウロから取り寄せたネガも使い物にならず、商売にはならなかった」
麻雀牌を持ってくるよう連絡してきた篤さんの「銀行には預けられない」という言葉を信じ、全ての持参金を預けた。 しかし、移住地の知人から、篤さんが他の移住者から、麻雀でお金を巻き上げられていることを聞いた。
「結局、騙されたんですよ。金だけ取られて、泣きたくなりました。詐欺みたいなもの。他人だったら分からないけど、親戚でしょう…恨めないですよ」
マラリアにも悩まされことから、同年6月に一家はサンタレンに出る。
「日本から持ってきた服、ラジオ、時計…全部売りました。頼まれて、さしていたコウモリ傘を売ったこともありましたよ」
勝大さんは、政府が建設していた学校の工事現場でトラックの運転手兼修理工として雇われる。生活も楽になるかと思われたが、請負主が金を持ち逃げした。
千津江さんは縫製の技術を生かし、ミシンの前に座り続けた。しかし、働けど働けど、生活は楽にならなかった。
「寝る場所も主人と長男がハンモックで、私はミシンの箱の上。10年くらいは、毎年4月にマラリアがぶり返して仕事にならない。(マラリアの)薬も買わなきゃならないし、次男が生まれた時は、乳も出ないほどでした」
手先が器用だったこともあり、勝大さんは様々な修理を頼まれるようになる。万年筆、人形、タイプライター。警察からはピストルまで持ち込まれたという。
その腕を見込んだ辻小平氏(辻小太郎の実弟)が薬、雑貨、家具などを扱う自分の商店の一隅を貸してくれたことから、正式に修理業を始め、70年には独立した。
そんななか、千津江さんは、日本で喘息に苦しむ父親を療養のために呼び寄せ、3年間の親孝行もしている。
今。サンタレンで「ヤノ」といえば知らない人はいない。従業員44人を抱える電気店「Electoronica K YANO」は、長男の直樹さんを始め、次男英樹さん、三男の春樹さんが兄弟で力を合わせ、切り盛りする。車の販売店も経営する。
毎日店に通っている勝大さんも、息子たちの活躍ぶりに目を細める日々だ。
一方、勝大さんは、73年に発足したサンタレン日本人会の創立発起人、会長を務めた。
千津江さんは婦人部長のほか、86年から14年間日本語のボランティア教師として、現地の日本語普及にも力を注いだ。現在の会長は、次男英樹さんだ。
「ブラジルに来たときは辛かったけど、立ち直って頑張りました。その姿を見て、子供たちが頑張ってくれる。家族は孫も含めて18人になりました」。千津江さんの顔に穏やかな笑みが広がった。
(つづく、堀江剛史記者)
写真=矢野千津江さんと勝大さん