ニッケイ新聞 2009年12月24日付け
奇しくも今連載、最初の吉井貴美子さんから北海道人と縁が深い。もう一人、北海道富良野出身の粕谷真保子さん(まほこ、54)は、同州唯一の日本語新聞で、同市に本社を置く「パラナ新聞」のオーナー社長だ。何度も経営者が交代し中断も経ているが、創業から半世紀以上を経た老舗邦字紙だ。
沼田信一さんによれば、宮村植民地の土地分譲を進める広告を出すために同紙は始まったという。
1953年にパラナ新聞からロンドリーナ邦人住所録の作成を頼まれた中川芳則さん(81、プロミッソン生まれ)は、「たしか創立2年目だった。その頃は毎号、宮村植民地の広告がデカデカと出ていた」と記憶する。今と同じ週刊で、当時は2代目社長の岡崎伊知志さんだったが、53年の大霜の影響で54年にいったん休刊したという。
最後の笠戸丸移民・中川トミさんの甥にあたる中川さんは、54年からローランジアのラジオで、翌55年からはロンドリーナのラジオ・ジフゾーラでも日本語放送をはじめ、軍事政権により外国語放送が禁止される64年まで人気アナウンサーとして活躍した。
その後、水田隼人さんが創立した「週刊トピックス」を中川さんが引き継ぎ、「週刊パラナ」なども出していたが、平野政雄さんによってパラナ新聞が復刊したので辞めたという。復刊後、上野アントニオさんらが経営を引き継ぎ、94年に粕谷さんが譲り受けた。
粕谷さんは両親につれられて3歳で、エスペランサ植民地に入植した。ロンドリーナ州立大学ジャーナリズム科を卒業し、フォーリャ・デ・ロンドリーナ紙で5年間記者として働き、移民70周年の時に来伯した皇太子殿下(現天皇陛下)に取材したという。その後、アマゾンで金取引に10年間従事し、90年のコーロル・ショックでたち行かなくなり、夫と共に5年間デカセギにいった。帰伯後、その資金でパラナ新聞を経営し始めた。
「94年頃、読者の大半は一世だった。ポ語紙面を中心に切り替え、今は半分ぐらいが二世以降の世代。それでも生き残りのために苦しんでいる」という。6年前に会社組織からNPO(公益団体)に変え、免税の文化組織になった。
社員は約20人、クリチーバにも事務所がある。パラナ新聞単独では赤字だが、イベント興行、インテグラーダ農協の機関誌編纂を請負ったり、農業専門紙を刊行するなどの努力で補っている。
公称発行部数は5千部。昨年から無料紙にし、購読者からは郵送料だけもらっている。無料配布にして広告営業に力を入れているので、どの頁も半分以上が広告で埋まっている。市内のバンカで販売しているが、その売り上げは配達人の取り分だという。
さらに、リーガ・アリアンサの公認機関誌になり、まとめて本部に届けると傘下の70日系団体に郵送される。
「失敗もたくさんあった。何回も潰れそうになっている。でもそのたびに、新聞を読んで喜んでくれるおじいちゃん、おばあちゃんの顔を思い出してがんばっています」。
(続く、深沢正雪記者)
写真=粕谷真保子社長