ニッケイ新聞 2009年12月24日付け
「センブリより苦いカラパナウーバという葉のお茶が菌を殺すんですよ。マラリアは何人治したか分かりませんね」
ニコニコと笑うのは、坂口成夫さん(85、鹿児島)。サンタレン対岸のアレンケールで薬屋を営んでいる。
特攻隊に志願し、満州で訓練に励んだ。
「昭和21年1月に出撃予定だった。終戦を知ったときは、歯噛みするほど悔しかったねえ」
帰国後、理想郷を築こうとアマゾン開拓に夢を燃やした故上塚司の著書「大アマゾン」を知人から借りて読み、感銘を受ける。
「アマゾンに行って、人のためになることをしたい」―。
1953年、「さんとす丸」に乗り、ベレン経由でサンタレンへ。引き受け人だった元高拓生の故沢木忠さん(08年に死去)の元で、ジュート栽培に携わる。当時のアレンケールには、6家族ほどの日本人がいたという。
この年は歴史的な大水がアマゾンを襲っていた。「着いたのは3月13日だけど、次の日になると土が見えないくらい水位が上がっていた」と振り返る。
56年から約3年間、ジュート景気が訪れる。
「種も繊維もアレンケールは有名だった。パリンチンスでは、1町歩100キロの種が取れたけど、その10倍は取れた。種を半俵売ったお金で家建てた人がいたほど、儲かったんですよ」と話す。
景気が終焉を迎えた60年代、ジュート栽培のため集まった日本人らは徐々にサンタレンやベレンに去り始めた。
日本に帰る人もいたが、坂口さんは、移住当時の思いを忘れず、アレンケールに留まった。
「薬を買い込んで売る仕事を67年くらいから始めたんですよ。そうしたら、『日本人のドトールがいる』ってことでどんどんブラジル人が来出してね」。薬局を開き、簡単な治療も始めた。
「年がら年中、患者が来るからね。歯をペンチで引っこ抜いたこともあるよ。5人の子供らは、もう仕事しなくていいというけど、現地の人はお金がないでしょ。頼まれたら、仕方がないよね。生涯現役でやりますよ」
来伯後、一度も日本には帰っていない。
「もし、帰ったら? そうねえ、指宿にある両親の墓参りをしたいですね」
アレンケールの〃赤ひげ先生〃は穏やかな表情を見せた。
(おわり、堀江剛史記者)
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アマゾン日本人入植80周年記念企画「アマゾンを拓く」は今回で終了します。
写真=「東京の隅田川は、イガラッペ(小川)だね」と笑う坂口成夫さん