「鞄一つのジャポン・ノーボ」とよばれ、肩身の狭かった独身コチア青年に夢を与えた二十歳前後の女性は、五十年の年月を経て、「あんな苦労も今となっては笑い話。あっはっは」と満面の笑みで笑って吹き飛ばしてしまう肝っ玉おばあちゃんとなった。移民百一周年の歴史の中で、この花嫁なくして今日の日系社会はありえなかった、と言っても過言ではない。記念すべき第一回コチア青年呼寄せ花嫁十二人は、今年金婚式。この節目に、半世紀の花嫁人生を振り返る。
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「花嫁さつそう上陸! 嬉しはずかし『集団結婚』」――。集団での花嫁移住は、「五十一年のブラジル日本人移民史初めて」のことだった。
一九五九年四月二十三日、あめりか丸でサントスに降り立った第一回コチア青年呼寄せ花嫁十二人の到着は、このように本紙前身のパウリスタ新聞に大きく報じられている(写真)。
「首を長くして待ちわびる花ムコ青年」だけでなくコロニア中が注目。
到着早々、集まったギャラリー三百人の前で、出迎えた青年と未来を誓い合う固い握手を交わして、そのまま披露宴会場へと移動した。
その直前の四月十日は皇太子殿下と美智子妃のご成婚。コロニアも例にもれず「結婚」に関する話題でもちきりだった時期。当然、この花嫁たちは一段と興味をひいた。
そしてもう一つ、注目された理由をあげるならば、全財産がたったトランク一つのカマラーダに過ぎない独身男性のもとに、わざわざ日本から嫁に来るのはどんな女性か――といった興味もあったのかもしれない。
「娘をどこの馬の骨とも分からぬ奴にはやれぬ」「土地も金もない新来青年より、他へ嫁に行くほうが貴方のため」―。当時は誰もが口を揃えて言ったのだった。
さらに、パトロン殺し事件まで起こした青年も出て、世間からは偏見の目で見られることも少なくなかった。結婚適齢期、だが相手を探す暇もなく、信頼も少ないコチア青年。独立を目指し妻の助けを必要としている彼らにとって、花嫁は救いの女神だったに違いない。
コチア青年移住三十年史によれば、五五年から八一年までに総勢二千五百十四人のコチア青年が移住した。その約二割が呼寄せ結婚。約五百人の女性たちがはるばるブラジルにやってきた。
ワッと泣いて駆け込む里も、お産をみてくれる母親もいないブラジルへ、たった一人の男を信じて――。
写真=サントス港に到着したばかりの花嫁たち(パウリスタ新聞59年4月24日付け)
月月火水木金金の日々=苦労こそ絆深まる秘訣
「月月火水木金金ってね、独立してからすぐは借金生活で一生懸命働きましたよ。とにかく二人三脚で、食べること食べさすことで精一杯でした」。こう話しながら屈託なく笑う木野順子さん(73、山形)は、職場の同僚だった栄吉さんから手紙でプロポーズを受けてブラジルへ渡った。第一回コチア青年呼寄せ花嫁移住者だ。
栄吉さん(77、同)は第一次三回で五六年に渡伯し、三年間の文通の末だった。
「プロポーズはどっちが?」と聞くと、「やっぱり男からでしょうねぇ」。照れながら答える順子さんが渡伯を決めたのは、二十二歳のとき。船の中では、花嫁仲間が「私の〃デンカ〃はどんな人かな?」とはしゃいでいた、と顔をほころばせて振り返る。
日本を発った三月は、皇太子さまのご成婚が間近とあり、世間はそれ一色。花嫁たちは海のむこうで待っている花婿のことを、ご成婚の話のたびに思い起こしたという。
栄吉さんと一緒になって一年後に独立、サンパウロ州スザノ市へ移り、現在もそこに居を構えている。貯めていた少しばかりの財産をつぎ込んで鶏舎を立て、養鶏を始めたものの資金が底をつき、コチア青年仲間に借金をしたこともある。
「(海外移住)事業団に頼んでみてもダメ。頼れるのは同じ仲間だった」
そんな辛苦を共にして五十年が過ぎた。「やっぱりブラジルに来て良かった。昔の苦労なんて忘れちゃったし、辛いことを乗り越えるからこそ夫婦の絆も深まって余計に仲良くなるんじゃないですか」。大きな笑顔で笑った。
写真=第一回呼寄せ花嫁の木野順子さんと、夫栄吉さん
出産日までエンシャーダ=天の川にのって日本へ
木野さんと一緒に蚕棚で五十数日間の船旅を一緒に過ごした芦川道子さん(74、静岡)。
夫博幸さんはコチア青年第一次七回で渡伯。コチア青年連絡協議会会長も務め、三年前に七十二歳で他界し、二人で金婚式を迎えることはできなかった。
サントスに着いて、二年半ぶりに見た博幸さんのことを、「真っ黒になって、もっと逞しくなってました」と目じりを下げる道子さん。
「サントアマーロの家に付いたときは、まだ泥壁が濡れてましたよ。忙しくて、だけど私が来るからって大急ぎで作ってくれたんでしょうね」
地元が一緒だった二人は、もともと知り合いだった。博幸さんは渡伯前に、道子さんの両親に「伴侶として送ってくれるか」と話し反対されたという。
が、二年半の文通を経て道子さんは海を渡る。「こちらには金のなる木などない」―。博幸さんからのほんの数行の手紙、そこからは苦労が滲んできたが、決意は揺るがなかった。
「覚悟してましたけどね、びっくり」。やっと会えたという余韻に浸る暇もなく、移民の日々が始まった。「最初の頃は寂しかった。何か言われたり、辛いことがあったら空を見上げては『天の川にのって日本に帰りたい』なんて」。
第一子が生まれるその日まで、大きなお腹を抱え、エンシャーダを引いていたという道子さん。「若いからできたこと」と振り返り、「夫に置いてきぼりにされてしまったけど、ブラジルに来て良かった」と微笑んだ。
写真=第一回呼寄せ花嫁の芦川道子さん