農業一筋の夫の面倒をみ、子供を育て、家事にも仕事にも手を抜かず、まさに八面六臂(はちめんろっぴ)活躍をしてきた花嫁たち。「(夫の顔が)写真と違っているとガッカリした人」もいれば、中には「とんぼ返りした人」もいたとか。「最初は泣いたね」との体験談は、今だから語れるもの。最初は右も左も分からない初々しい花嫁も、子供が生まれれば根が生えたようにたくましくなり、いつのまにかカマラーダを鼻で使うようになっていたという。来伯二年で花嫁姿を夢見る本紙女性記者(26)を相手に、今だから言える五十年間のエピソードを特別座談会で語ってもらった。(編集部)
座談会メンバー【コチア青年花嫁4人】
■貞末洋子(67、福岡県)、以下:洋■
1964年、働いていた会社を辞めて23歳のときに花嫁移民。その8年前に渡伯していた哲也さん(72、同)と、サンミゲル・アルカンジョで二人の人生をスタートし、現在まで同地に暮らす。「子供ができてガラリと変わった。今は二人のビーダを楽しんでいます」。趣味はジナスチカとゴルフ、音楽、ピアノ、パソコン。
■杓田美代子(66、三重県)、以下:美■
1967年、すでに渡伯していた姉夫婦が仲人になり、正さん(68、同)と文通の末に花嫁移民。数年熟考した後の、24歳の一大決心だった。養鶏業を経て、現在経営するカウカイアの杓田蘭農園は胡蝶蘭で南米一の規模を誇る。「運命なんて軽いものじゃない、自分で選んでブラジルへ来た」。趣味はゴルフ、カラオケ。
■山下重子(66、福井県)、以下:重■
1961年、治さん(73、同)の「二人で頑張れば―」と書いた手紙を読み、「一緒に頑張りたい。この人の力になりたい」と情熱をみなぎらせ、19歳で花嫁移民。夫婦で、サンミゲル・アルカンジョ市のコロニア・ピニャール「福井村」建設に貢献、現在も同地で果樹を生産する。趣味はソフトバレーボール、俳句、菜園。
■富田いさ子(70、茨城県)、以下:い■
1959年、21歳のときに両家の親に説得され、一年前に渡伯していた従兄弟の勇さん(73、同)と文通を経て花嫁移民。ノロエステ線リンスでカフェザルをした八年間は、パトロンの家の一室に住み、「辛いことは笑って乗り越えてきた」。モジ・ダス・クルーゼス在。趣味は油絵と菜園。
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親(=本紙女性記者):誰も、花嫁をブラジルへと導いた「手紙」を持ってきてくれなかったんですね…。楽しみにしてたんですけど。
美:みなさん恥ずかしいって。私なんて捨てました(笑)。だってね、ブラジルに大切に手紙を持ってきたのに、主人が捨てちゃってたから。
親:そりゃないですね、乙女の心が…。でも美さんも気が強い。さて今日集まって頂いたみなさんは手紙で結婚を決めたということですが、出身は旦那さんと一緒?
美:コチア青年というのは、青年らが「お嫁さんを送って欲しい」って親元にお願いすると、県庁が責任を取って花嫁を探したのね。同じ県のほうがいいだろうってことで、だいたいそうです。まぁ例外はありますけどね。
重:全然違う県のカップルがいたけど、相手側の家族のことも知らずに来たりするでしょ。そうするとうまくいかないケースも見られたね。
洋:私たちは日本に残った親同士が連絡取り合える環境だったから。
重:そう、来る前に何度か相手の家へ行き来して主人抜きのカザメントみたいなのもしたし。
「頑張ってる人の相棒になりたい」=花嫁のタイプ
親:二十歳前後の若い女の子が、花嫁としてブラジルに渡る決心をするって相当勇気がいることですよね。普通の女の子は考えなかったんじゃないかと思うんです。好奇心旺盛でガッツのある人が多いんじゃ?
重:そうそう、苦労してる人の相棒になってあげようっていうファイトをみんな持ってるね。
美:一人で独身で頑張ってるから、自分も行ってお手伝いしようっていうそういう気持ちね。
洋:私はそうじゃなかったですよ。
親:じゃあ嫌々ですか?
洋:私は全くその気はなくて普通に大学卒業して働いてたら、会社に直接来て「行ってくれ」って。仲人さんに白羽の矢を立てられたのよ。
美:それでいらっしゃったんですね。
洋:写真と手紙のやり取りを二年ぐらいしてから結婚したの。
親:運命の始まり?
美:それは違う。コチア青年の花嫁さんは運命で流されて来たんじゃなく、自分の意志でやってきたのよ。誰に頼まれても、本人が「行く」と言わなければ実現できない。どういう形にしろ、自分で決断した素晴らしい方ばかり。
重:そう、誰の責任でもなくね。
洋:結局文通を通して惹かれて来ました。写真はごまかされた人もいるかもしれないけど(笑)。
重:私の場合は、年の暮に相手の母親が高校に現れて、それでまずね、ひどいよね、私に会わずに私の叔父である教頭に会いに行ったの。校長室に呼ばれて行くと、「洋子さんですか。県庁からあなたがブラジルに興味を持ってるって聞いたから」って。
洋:ブラジルに行きたい気持ちがあったのね。
重:そうね。「花嫁もとむ、ブラジルで頑張る青年に誰か嫁に」っていう新聞広告も見てたし、その年の夏休みにブラジルの偉い人たちが講演に来て、誰かに誘われて参加したのよ。「ブラジルはいい所だ。すぐはうまくはいかないが、夫婦になれば、力を合わせて何でもできる」っていう話に惹かれてたのよ。
親:ではお母さんが会いに来られたとき、決心はだいぶ?
重:いやいや、まだまだ。でもね、お母さんがあんなに一生懸命、息子に嫁に来て欲しいと話してる姿見たら…。成功してるわけじゃなく、体一つだっていうのは分かってた上でアジューダできるかなって思いました。
親:母性本能ですかね。
重:苦労するのは覚悟の上。だから家出るときは反対された。次の学校に入る準備をしてたけど、「大きなところに行って大きなことができるんじゃないか」って気持ちで半年後にはもうここ。
親:早い! 手紙で旦那さんは何と?
重:早く来てくれってばかりの手紙ね(笑)。実は仲人が他に何人も当たったらしいけど、百姓生まれで耐えられそうでやる気があるのは私だけだったみたい(笑)。
親:美さんのきっかけは?
美:実の姉夫婦がこちらに来てたのがきっかけ。義兄の弟だった主人も渡伯していて、私はずっと来るよう言われてた。文通がやはり大きな要因ですが。
洋:やっぱり何かきっかけがあるのよね。
こんな花嫁もいた!=甲板で初めて見る夫=「私、嫌だわ…」
親:みなさんの他に印象的な花嫁さんはいます?
洋:帰ったっていう人も聞いたことある。
い:そうそう一緒に来たけど、全く消息を聞かない人も。
美:写真と違って随分がっかりしてた人も(笑)。
重:写真結婚っていうのは問題ですよね、本当。
い:船が着いて旦那さんを見たとたん、「え、あの人? 私、嫌だわ」って言ってる同船花嫁さんがいたわ。周りは「気の毒だねぇ」って。
美:一緒にならなかった?
い:いや、一度一緒になって、その後は…。
美:だけど、全体的にそれで帰国された方はほんの僅かですよね。
重:知ってる人でも二、三人かしら。
美:船旅中に船員さんと仲良くなられて、とんぼ返りした人もいらっしゃるんですって。
一同:(爆笑)。
日本を想い涙の夜=「笑ってこなしちゃうしかない」
親:花嫁ならではの苦労ってどんなことが?
洋:ならではっていうよりやっぱり言葉、生活環境が全然違うことに、本当に戸惑いました。日本だったら、若い女の子は朝起きてお化粧なんかする。でも言われましたね、日本じゃないんだ、化粧なんてしなくていいって(笑)。ちゃんとパトローアが見てる。
い:最初は泣いたねぇ。
洋:二、三年は日本が懐かしくてね。夜になったら悲しくなって…。
い:私なんてパトロンと一緒に住む生活が八年間弱。コジーニャの続きにある縦二メートル横三メートルくらいの部屋にカーマもグアルダホーパも用意してどうぞって。でも何するにも食堂通らなくちゃいけない。
重:アジューダしなくちゃいけないわけ。
い:そう。そのパトロン夫婦はやり手で、家はいろんな人が出入りする宿・食事どころ。私は百姓は手伝わなかったけど、朝から晩まで、お腹痛かろうが頭痛がしようが手が抜けなかった。
重:それは気の毒だわ。
い:家に残るのは女同士だし。一時期はものすごく泣きましたよ。でもこれもまたね、慣れね。心で泣いて口で笑えるようになる。
親:すごい…。
い:笑ってこなしちゃうの、しかられたことも全て。旦那とじゃなくて一人でよ、言っても通じない。逃げる場所はない、でも笑うことだけはできるのね。
美:主人にはやっぱり愚痴は言えない、暇はない。一日中外で働いてくたくたになって帰ってくるから。私も当初は泣きましたねぇ。
親:どうやって乗り越えたんでしょうか?
洋:日本の姉から「早く子供作りなさいよ、紛れるから」って手紙をもらいました。本当その通りね。子供ができるとガラリと変わったわ。
美:あのころは手紙しかないから、手紙に励まされた。
重:月に二回か三回は主人の母親から手紙が届いて励ましてくれた。八十一歳で死ぬ直前まで送り続けてくれましたね。ブラジルに居る者にとって手紙って本当に大事。
親:やはり「手紙」は、花嫁移民を語る時のキーワードですね。
「あぁ帰ろうかな」=花嫁は母へと
親:ここだけの話、日本に戻りたいと思った?
重:そんな思ったことない、そんなの無責任。
い:私はしょっちゅう喧嘩したわ。「あぁ帰ろうかな」って口だけで脅迫した(笑)。
重:もし帰ったらどんなに親兄弟悲しむわ。
富:そう真剣に考えない、ただの脅迫よ。
洋:苦労はしましたけど、居られないってことはなかった。とにかく一生懸命、旦那について働いてきただけね。ただ、最初は辛かったけど、子供ができてからはもうガラリと変わった。子供が可愛くて、生活も張りがでてくる。それまでは主人は朝から晩まで仕事に出て一人ぼっちで寂しくって。独立して子供ができて慣れてもきた。ぶどう作りながらアーリョ、セボーラ、かぼちゃ、とにかく全部作りましたよ、三百六十五日。
親:旦那さんは?
洋:主人は大事なところは指示していくけど外交役。カマラーダ三、四十人のトマコンタから全て私。二台の車で二人手分けして労働者迎えに行ったり。子供四人育てながらね。
重:百姓の仕事は夫婦一緒にできるからいいけど、女性は強いよね。
洋:子供ができてからは強い。
親:はい、母は強し―ですね。
洋:最初は子供らを町の寄宿舎に入れてたんですけど、「あなたの子は五歳で寄宿舎に入って、シャワー浴びた後にパジャマでまだ砂遊びしてる」って言われたの。私たちは田舎で頑張ってたんだけど、それを聞いてほったらかしで可哀想で、町に移った。私たちが町から田舎に通うようにしたのね。朝五時に星を見ながら行って、夜は星を見ながら帰って、洗濯、食事やら家事やってっていう生活を二十年以上ですね。その間日本から研修生を受け入れたり、でも無理がたたって過労で倒れちゃったわ。医者に辞めなさいって言われました。今になってみれば過ぎたことで苦労とは思いません。
美:ジナスチカ(体操)に行き始めたのはその頃?
洋:そうね、始めてから二十年。でないと体がもたないから。以前は美智子様みたいに、主人のだいぶ後ろをついてたのね。だけど始めてからは反対。主人が後ろを付いてきてる(笑)。
美:逆ですね。
洋:今は病気は何もなくて、おかげで老後をエンジョイしてます。
い:やはり母は強しね。子供ができると、どうしても強くなりますよ。
美:私たちの時代に教育勅語はなくなっていましたけど、その教えは残ってて教え込まれてきた。「女は嫁げばそれが自分の墓だと思え」っていう精神が皆さんの中にあるのね。ここで骨を埋める気持ち。帰りたい帰りたいって思いつつ、本気で考えてはいない。
重:そういう気持ちよ。決心して来て、夫や子という宝ができたんだもの。
宝は家族=受け継がれていく日本
親:半世紀の末ブラジルで手に入れた宝は?
重:家族でしょうね。
美:孫ですね、可愛い。
洋:私は子供。一生懸命働いて、四人の子供に教育一番でやってきた。みんな大学出して、みんな綺麗な家に住んでるけど、私らはまだ古い汚い家に住んでますよ(笑)。子供への投資が終わってから自分たちの生活を楽しんでます。
い:私の孫は一人ですけど混血。一生懸命勉強して、弁護士の大学に受かって入った。そりゃあ私たちは喜んだけど、数カ月して「歌手になりたい、日本へ行く」って。
重:また…。
い:お金は無いし自分の夢に向かっていくのは大変ですよ。私は行かせたくなかったのね。でも「ソーニョだから許して」って今二年ぐらい。途中で折れてはいけないよって話してるんです。
親:花嫁おばあちゃんの教えですね。
い:まだまだ見守らないといけませんね。
美:やっぱりあいさつから始まるしつけを、伝えていかないと。
洋:そういうことを次世代に受け継いで欲しい。
い:親がしっかり教えてね。
洋:親の背を見て子は育つって言うものね。
美:花嫁さんって親を見て教えを守ってただただ邁進してきた。今の個人主義の子供にも、目先のことには関係ないことでも目上の人に対して聞く耳をもってほしいですね。何十年先に挫折するときに簡単に鬱になってしまったり自殺に走ったりしてしまいますよね。ちゃんと聞いていれば何か役に立つはず。
重:子供には、相手をよく理解して、優しい気持ちで人と人との関係を築いて欲しいね。
洋:そうそう。やっぱり、私たちの宝は子供。次の世代がちゃんと育ってなかったら、日本から来た意味がなくなっちゃうと思う。ちゃんと育っていれば、どこかへ消えずにブラジル社会に足跡が残るわ。そして次に生まれてくる子供にも引き継がれていく。それは主人の手柄であり、果たせた義務じゃないかしら。(おわり)
《覆面座談会》=ブラジルへ導いた愛の手紙=「ハワイに新婚旅行へ」!?
A:初めてもらった手紙には、主人がものすごい約束を書いていた。それを心待ちにしてやってきたの。「お前が来たら、ハワイに新婚旅行に行こう」とかありえないのに(笑)。でもやっぱり嬉しい。そこまで出来ないだろうけど、何かしてくれる人だって思った。ところが…。来たすぐは二人力を合わせなきゃいけないけど、落ち着いたら二人の時間を楽しもうって話していたの。毎年旅行しているコチア青年夫婦を見るようになってきて、「一年に一回でいいから旅行に行きたいわ」って言ったら「あぁ行こう」ってその時は。結局六十歳過ぎたときに「行きましょうか」って誘ったら「お前行っておいで」って。
一同:そりゃないわ!
A:未だに一度も果たされないまま。
C:その点、私の主人は、のろけを言うわけじゃないけど優しいわ。
A:ちょっと私の主人に対する評価を締めくくりさせて。最初の取り引きが大事で、その契約に対してとても惹かれて来たのにこんな…。実行して欲しかったな。もう今は割り切ってますけど。
D:うちは小さい頃は一緒に遊んだり喧嘩もした仲だから、文通もしたけど「俺はお前よりもっといいのが居たんだ」って言いますよ。
E:今になってでしょ?
D:そう。文通での口説き文句もなかったし。旦那の父に頼み込まれた母親に「あなた行きなさい」って言われて抵抗なく来た。約束もなかったから特に評価は。
B:Eさんは?
E:文通しているうちに互いに性格がわかってきたんですね、健康的で前向きな姿勢な人だった。特に殺し文句はなかったけど、とにかく二人で一緒に頑張ってきた満足感があります。
C:私は「二人で一生懸命頑張れば、形になる」っていう内容の手紙に共鳴したわ。いつもお金が十分じゃないけど自分らが生活していくのには不足ない。だから手紙の「一生懸命頑張れば」っていう言葉通り。そして旅行もしてます。
A:いいなーうちは一回もない。いつもご主人と一緒で羨ましい。
一同:(笑)