ニッケイ新聞 2010年1月5日付け
「いま働かないと、年とったらできないと自分に言い聞かせてやって来ました」――。そう語るのはリベルダーデ区アメリコ・デ・カンポス街で長年「木村理髪店」を営んできた木村光子さん(73、熊本)。1966年から髪を切り続けて43年、昨年末をもって引退した。
1960年に渡伯した光子さんは、夫の秋行さん(77、熊本)のおじの呼び寄せでサンパウロ州パウリスタ線イラプルーの農場に入植。慣れない農業であったが、1千アルケールの綿畑で爪が逆剥けるまで働いた。「下手だったからね」と当時を振り返る。
4年後、子供の教育のことを考えてサンパウロへ。「(出るなら)早い方がいいと思って」、それでも「仕事がないのに出てきたので不安だった」という。
秋行さんはコチア産業組合やスールブラジル組合で働き、光子さんは職探しで日伯援護協会に相談へ。「ブラジル語も出来なかったけど、自分で何かやらないとダメ」と思い床屋をやることに決めた。
コンデ街にあった床屋学校に通い技術を身につけた。日本のハサミを操るブラジル人の先生だったが、「昨日と今日で教え方が違う」と食ってかかり、「よく喧嘩しました」。すると逆に気に入られ、可愛がってもらったという。
66年にリベルダーデ広場にあった理髪店で働くようになった。従業員は一世ばかり。女性が多かったのでブラジルの雑誌がよく取材に来たという。「日本の職人は厳しかった。泣いたこともあった。でも、お陰で上達し、あとで御礼を言いましたよ」と振り返る。
3年働いた後、71年に独立し、今のガルボン・ブエノ街バンデイランテス病院辺りに店を開いた。当時は最低でも5人は従業員がいて、朝8時から夜中の12時まで働き尽くめ。光子さんらがするマッサージも好評で、「負けてなるものか」とより良いサービスをしようと心がけていた。
その頃、いろいろなお客さんが来た。ブラジリアから大使が来たときには、7人の警備員と共に来店。彼らが「早く済ませろ」という横で大使は顔の汚れをとる美顔術を頼み、「ここではゆっくりできる」と言い喜んでいたそうだ。
さらに、酔っ払った白人の散髪を断ったときには「移民で来ているくせに断るとは何事だ」と怒られ、「慣れていないから切れません」と言うべきだ、と教えられたことも。当時のガルボン・ブエノ街では酔っ払いが軍歌を歌いながら歩き、日本人も多かったという。
それでも「いろいろな層の人たちと話せて勉強になった」し、「通貨がころころ変わった時にもいろいろと教えてもらった」と懐かしんだ。
15歳でブラジルに単身渡航し、現在は日本のJリーグで活躍するプロサッカー選手の三浦知良さんも常連の一人だった。光子さんの引退に合わせたかのように、12月21日に来店したそうだ。
同じ熊本出身で、20年近く通った池崎博文ACAL会長は、「椅子に座れば説明しなくてもぱぱっとやってくれ、安心できた」と語り、「町のため、リベルダーデのためにすごく尽くしてくれ、根性がある人。寂しくなるが、感謝している」と語った。
光子さんは、「もう十分働いたから、思い残すことはない」と語り、「とりあえず日本にいる弟妹に会いにいって休憩します」と元気に答えた。
同店は今年から、須崎節子さんと林由里子さんが引き継ぐ。