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ブラジルの風が運んだサヨナラ本塁打=高校球児=奥田ペドロ=(上)=「ママイ、元気になって」

ニッケイ新聞 2010年2月13日付け

 2008年8月5日。日本移民百周年の記念すべき節目の年に高校野球の聖地に立ったひとりの日系三世が、ド派手なフェスタを演出した。
 本庄一(埼玉)の応援団で埋め尽くされた一塁側のアルプス席でブラスバンドが奏でるのは、ラテンの国からやってきた留学生のために用意された軽快な「テキーラ」のリズム。
 そんな周囲の陽気な雰囲気とは対照的に、バッターボックスに立つ奥田ペドロは、打席に人生を賭けていた。大会一回戦の開星(島根)戦は、4対4の同点のまま本庄一による九回裏の攻撃を残すのみとなっていた。
 〈何とか後の仲間につながないと……〉。最終回での先頭打者の重責は、日ごろ決して笑顔を絶やさないブラジルからの留学生にも重くのしかかっていた。勝ちぬき方式の大会がない母国で野球を覚えたペドロだったが、来日後一年数か月の留学生活で得たものは、技術もさることながら、勝利への執着心と連帯感。「ブラジルでは野球は単なるスポーツ。日本では皆の賭ける気持ちが違う」(ペドロ)。大観衆がかたずをのんで見守った3球目のスライダーを懸命に振り切ると、白球はバックスタンドに飛び込むサヨナラ本塁打となって、春夏通じて初の甲子園出場だった本庄一に、貴重な初勝利をもたらしたのだ。
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 大舞台での本塁打は2002年に瀬間仲ノルベルト(日章学園)が記録してはいるものの、サヨナラ本塁打は、日系初の快挙だ。決勝点となるホームベースへ帰還を果たした瞬間、ペドロは思わず天に向かってベイジョを送っていた。
 過度のガッツポーズさえしばしば論争の種になる閉鎖的な高校球界である。日本の球児ならまず許されないパフォーマンスではあったが、そこには許されるべき、ある想いが込められていた。
 〈ママイ、元気になってね……〉。
 本塁打を打ったことよりも、チームを勝利に導いたことよりも、生まれ故郷のマリリア市で病床にある母ローザの気持ちに自らのバットで応えたことが何より嬉しかった。
 時に厳しく、時に温かく指導に当たってきた監督の須長三郎は、2006年にブラジルに直々に足を運んでいるだけに「ちょうど移民百周年の節目の年に何かの結果を出せれば」。予期せぬペドロのサヨナラ弾を感慨深げにこう振り返る。「本来なら本塁打になる当たりじゃない。きっとね、ブラジルからの風がスタンドに運んでくれたんです」。
 あの日、甲子園名物の浜風ではなく、ブラジル球界に携わる人々の思いが、ペドロの打球を後押しした。
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 「コウシエン、サイコー(最高)」。試合後、満面の笑みを浮かべたペドロだったが、2007年3月に始まった異国での挑戦は、決して順風満帆とは言えなかった。支えてくれたのはチームメイトでもあり、同郷の幼馴染だった日系三世の投手、伊藤ディエゴだった。
 男の子はボールとともに誕生する――とさえ言われるサッカー王国に生を受けたペドロも幼少時には、ボールは打つものでなく蹴るものだとばかり思っていた。
 「一回バッティングをやってみたら面白くてハマった。それにマリリアはブラジルでは珍しく野球が文化として根付いている町だったから」(ペドロ)。ディエゴの母に誘われ、気まぐれに体験したバッティングが運動神経の固まりともいえるペドロを野球の道に導いたのだ。
 「僕らが甲子園にいるのはブラジル野球の進歩の証し。そして日系人として誇りに思う」(ディエゴ)。
 そう。ブラジル人ならではのリズム感、ジンガを持つペドロという「種」は昔から野球熱が高かったマリリアだからこそ、芽を出し、父祖の国での修業を選んだからこそ、甲子園で花を開かせた。
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 昨年末、米メジャーリーグのマリナーズとマイナー契約を結んだ日系三世が歩んだこれまでの野球人生と、彼を取り巻く人間模様を二年近い現地取材を元に描く。(社友・スポーツライター、下薗昌記)