ニッケイ新聞 2010年2月18日付け
「あいつらが甲子園のグラウンドで野球をしているなんて夢のよう」(須長三郎)。2年生だった一昨年の夏、奥田ペドロと伊藤ディエゴを擁して初の甲子園を戦いぬいた本庄一の指揮官は感慨深げにつぶやいたが、その道のりは険しいものだった。
留学当時、二人の三世がまず悩んだのが野球のレベルもさることながら、日本語への適応だった。
母国で日本語との接点は?――。「ゼンゼン」(ディエゴ)。「ナーダ、ナーダ」(ペドロ)。純然たる日系の家庭に育ったディエゴでさえ、日本語の知識は皆無に近かった。非日系の父を持ち、混血の母に育てられたペドロにとってはなおさらである。
「ペドロは何でも初球から打ちたがるし、ディエゴは直球ばかり」と須長は、当時を振り返り苦笑する。大味なブラジルの「ベイゼボウ」(野球)と緻密な日本の野球のギャップに悩む二人に須長も「スマイル(笑って)」「ファイト」など片言の英語を交えて指導をするものの、なかなか真意が伝わらない。本音は「二人が可愛くてしょうがない」須長ではあるが、つい「もうブラジルへ帰れ」「何やってんだ」と厳しい言葉も飛び出すこともしばしばだった。
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留学して半年ほどは、辛い日々が続いたが、二人にとって救世主とも言える存在が現れた。同校野球部のOBで、ペルー生まれの日系二世、知念誠が通訳としてペドロらのサポートをすることになったのだ。
「あの頃の二人はかなりヤバい状態だった」(知念)。やはり、自身も過去に留学生として同じ苦しみを味わっただけ、後輩たちの顔を見れば、その心境は察しが付く。
知念の起用は須長の大ファインプレーだった――。「マコトさんは本当にアジューダしてくれた」。須長の努力だけでは伝わり切らなかった微妙な技術指導や野球観をペルーの二世を通じて吸収しはじめた二人は、名実ともに本庄一の一員として聖地を目指し始める。
「ブラジルではミスを気にしない。でもここでは自分のミスで20人近い仲間が全員負ける」(ペドロ)。
2008年4月、マリリア市に残したペドロの母、マリアが脳腫瘍の手術を受ける際、須長は「戻るかどうかお前が決めろ」と送り出したものの内心は「もう帰ってこないかも……」。 三番、ショートという主軸のペドロを欠いた本庄一は春の県大会で初戦敗退。 しかし、ペドロは「お前は日本で頑張りなさい」との母の言葉を胸に、五月に復帰する。
「お母さんの病気でペドロから我がままが消えた。そしてペドロの不在でディエゴも成長した」(須長)。春夏通じて初の甲子園出場を達成したチームの原動力は間違いなくマリリア生まれの少年たちだった。
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劇的なサヨナラ本塁打から一年。最終学年の昨夏、ペドロ擁する本庄一は埼玉大会で涙を飲み、二年連続の出場を果たせなかった。「僕へのマークが厳しくなり、甘い球は来なくなった」とペドロも振り返るように、県内屈指の好打者に成長したからこその試練が立ちはだかった。
5回戦こそ3安打したものの残る5試合ではわずか計3安打。不完全燃焼のまま、最後の夏は幕を閉じた。
ただ、指揮官の見方はこうだ。「甲子園に行けなかったのは結果的にあの子にとって良かったのかも」。
打撃ではラテン気質ならではのムラっ気が時に災いするが、守備に関しては須長も「独特のリズムがあるし、プロでも慣れれば守りは通用する」と高く評価を送る。
母のために成功したいというペドロも「日本の血も受け継いでいますけど、やっぱり僕はブラジル人。リズム感や抜け目のなさはブラジルならではの感覚。守りで、ブラジルならではのリズムが役立つはず」。
ジンガとベイゼボウの融合の先にある可能性とは――。マリリア市生まれの少年が次に選んだ挑戦の舞台はベネズエラにあるマリナーズアカデミーだ。
(終わり。敬称略、社友・スポーツライター、下薗昌記)
写真=本庄一高校の須長三郎監督(右)、伊藤ディエゴ(中)と奥田ペドロ