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二世とニッポン語問題=コロニアの良識にうったえる=アンドウ・ゼンパチ=第17回=書き、話す能力とポ語

ニッケイ新聞 2010年3月11日付け

 ニッポンでも、教育漢字だけでは、ふつうの本や新聞雑誌はよめないので、これが完全によめるようになるには、中学校を終えなければいけないといわれている。
 まして、わがコロニアでしかも、四年間の初等教育で、ニッポンの本や雑誌をよめるように教えることなど、とうていできることではない。それにもかかわらず、今日まで、コロニアで行われている日語教育は、ニッポン語を読むことが主な目的とされているらしいが、その結果として現在現われている実状は、二世の大部分のものが、ニッポン語を読む力がないということである。したがって、書くことも、漢字を使うということが、わざわいして、手紙一つ満足にかけるものは少い。そして、話すことについては、ほとんど教えられていないために、正しい話し言葉もよく知らないというのが子どもの時に、日語学校へ通った二十才前後の二世の大部分である。
 それゆえ、日語学校の初等科で、たくさんの漢字をムリにつめこんでみても、初等科だけで、あるいは、それから少し進んだ程度で日語の勉強をやめれば――この程度でやめるものが、ひじように多いのであるが――せっかく、苦労して習ったところで、読むことはもちろん、思うように書くことも、正しく話すこともできないという、アブハチとらずの結果になるだけである。
 そこで、初等科四年をおえれば、書くことと話すことだけは、まずまずできるようになるというところを目標にした教科書の編集こそ、コロニア版としての意義があるといえるだろう。
 ニッポン語は、二、三百のわずかな漢字を知ってさえいれば、ふつうの文章なら思うようかけるのである。二世が、ちょっとした手紙でさえ、じゅうぶんに、自分の気持を現わしてかけるものが少いのは、漢字にこだわりすぎるためと、少い漢字で文章をかくことを習っていないからである。また、話すことも、日語学校で話し方の勉強が軽んじられているために、家庭でニッポン語を使っているにもかかわらず、正しく話すことができないというバカゲたことになるのである。
 それゆえ、初等科ではあくまで、文章を書くことと、話し方に重点をおいて、ニッポン語を教える方がいいので、このような方針で、教科書を編集するなら、漢字は四、五百程度にとどめてさしつかえないだろう。
 また、ニッポン語が、二世に有益に役だつためには、二世がよめる程度のポルトガル語の文なら、それが、ニッポン語にホンヤクできるようなものでなければいけない。ポルトガル文の意味は分るが、ニッポン語になおすとなると、満足にやれないのが多いのは、せっかく習ったニッポン語が、二世の実際生活と関連のないものになっているためである。だから、二世への日語教育はひとつひとつの言葉をポルトガル語でもいえるように教えてやって始めて、二世に役だつニッポン語となるのである。