ニッケイ新聞 2010年4月23日付け
1960年4月21日―ブラジルの首都が、何もなかった荒野の真ん中にたった3年余りで作られた近代的な未来都市ブラジリアに移転した記念すべき日だ。大西洋岸に位置していたサルバドール、リオとは違い、中西部に作られた新しい首都は、以来50年間、常に政治の要として、その歴史を刻んできた。
20日付伯字紙が、1957年の新首都設計コンクールについての記事を掲載、21日にはブラジリア特集のページを組むなど、第2次世界大戦後の20年に繰り広げられた民主政権下での遷都は、ブラジル史の中でも大きな意味を持つ出来事だ。
広大な領土に無限の可能性を秘めながら、主要都市は全て大西洋岸に集中し、内陸部にまで手が届かなかったブラジル。
しかし、第2次世界大戦後に、産業の近代化と民主化を課題としていた若きブラジルにとって、中西伯開発以上に大きかったのは、白人と黒人、日本人などの移民社会の民族的融合を前進させ、従来の経済支配や官僚体制を解体するための、新しい衣としての役割だった。
1946年の憲法に首都移転が規定されたのを受け、首都移転実施を選挙公約として1956年の大統領選で当選したのが、いまもJK(ジョッタ・カー)の愛称で呼ばれるジュセリーノ・クビチェッキで、首都機能移転実施に関する法律制定が56年。翌年には、新首都プランのコンクールが行われた。
同コンクール入選作が飛行機形のルシオ・コスタ氏案で、突貫工事に次ぐ突貫工事を行い、3年余りという短期間で新都市建設が完工された。
任期の4年で完成しない工事は行わないというのが常識であったため、JKは自らテントを張って乗り込み、陣頭指揮。公約通り1960年4月に遷都を行った。
人工的で人間味がないとか、世紀の失敗作などの批判も浴びたブラジリアも、当初の計画通りに種々の機能をコンパクトに納めた南部308地区などを中心に、260万人が住む都市に成長。不動産や車の売買などを中心に営まれる経済活動により、住民1人当たりの所得は国内第1位、人間開発指数もドイツ並みの0・945。近郊にはアフリカ並みの開発指数の町がある事を考えると、その生活水準の高さは群を抜いている。
荒野の真ん中に短期間で建設した事実やその広大なスケール故か、1987年にはパイロット・プランがユネスコ世界遺産に登録されたブラジリアは、オスカル・ニーマイヤー設計のカテドラルや連邦議会議事堂などの文化財も豊富。当初から政治の町としての宿命を負い、軍政、再民主化の歩みを見守ってきた新首都は、100万人の人出を見たダニエラ・メルクリーやミルトン・ナシメントらのショー、盛大な花火に彩られ、50周年の祝いの時を過ごした。