ニッケイ新聞 2010年6月11日付け
念願の第1次南米学生実習調査団は農業、工業、商業、水産部門からなり、8大学12人から組織された。衆議院第二議員会館での壮行会を経て、4班に分かれ1960年10月中旬から12月上旬にかけて出発した。ブラジルでの身許引受人はブラジル野村農場総支配人、牛草茂氏だった。
工業部門として宿屋商工(鋳物会社)で研修した大束員昭さん(72、福島、神奈川大)=カンピーナス=は、「一工業移住者と想定して」の研修だった。大平正芳官房長官(当時)より出発時、「日本国民間大使として日本国に恥のないような充分の活躍を期待する」と言う励ましの言葉をもらい「第1次団員は絶対にミスを許されないという緊張感に満ちていた」と当時の様子を語る。
そもそも大束さんが神奈川大を選択したのには理由があった。
幼少期は満州・奉天で豊かな生活を過ごしたという大束さんは、終戦で銀行員だった父がシベリアに抑留され、母子5人で母方の故郷、福島県猪苗代町に引き揚げ。そこでは今まで使っていた日本語(標準語)が全く通用せず、かつ子供達が話す言葉(会津弁)が全然理解できないショックから始まる。
父も約半年後に引き揚げて来て、父方の故郷、会津若松市に移るも、将来は海外に出ようと夢は膨らむ一方だった。大学進学にあたり、高校の英語教師から、「機械科で英語に加えて、世界で広範囲に使われているスペイン語を勉強出来る大学を探し、セールスエンジニアーになっては」とアイデアをもらい、当時唯一の大学が同大だった。
大学で機械科を専攻していた大束さんは日本での工業実習経験が豊富だった。工業部門として派遣された小見山宏明氏(早大)もまた工業経営の学者肌で、2人で力を合わせ、工場設備設計や昼夜72時間のコントロールが必要な鋳物焼鈍処理など、新技術開発の手伝いをした。
今までの経験を存分に活かせた実習で「我々でなければ出来ないような成果を発揮できた」と語る。
第1次団の羽嶋禎紀団長(早大)は記念誌の中で「当時の日本は敗戦から立ち直ったかな、という頃で、今と全然環境が違う・・・戦争に負けていない国の方が生活のレベルが高いような気がして、夢みたいなものを持っていた」と当時の心境を述べ「実際に現地を体験してみると、そんな生易しいものじゃないという感じでした」と感想を述べている。
派遣団は帰国後、様々な形で、移住に対する正しい認識を深めるよう啓蒙活動を行った。報告書では「学生の見たブラジル」(外務省移住局発行)にまとめ、報告会は大阪新日本汽船ビルや関西大学、全国の高校にまで及び、さらにはTV「婦人サロン」、短波放送「学生の見て来た南米」に出演したりと、遊説生活が続いた。
大束さんは「当時は海外に目を向ける学生などは少なかったと思う。特に工学部では同じような夢を語り合える同級生は居なかったが、学移連に行けば、夢を分かち合える同年輩の仲間に会えることが心強かった」と学生時代を振り返った。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=第1次団の集合写真。前列右から2番目が大束さん(1960年、大束員昭さん提供)