ニッケイ新聞 2010年6月15日付け
学移連を青春時代の1ページとする学生と、切っても切り離せないのが「日本フロンティアセンター」だ。
杉野忠夫・顧問会会長が死去した後、1965年に顧問会会長に就いた後藤連一日本大学農獣医学部拓殖学科教授は、著書「紙碑」の中で、同センターの目的を「・・・ここに私は学生たちのための『広場』をつくるつもりだった。マスプロ教育における不足の部分をここで補おうとしたのである。自然の中で学生たちと膝をつきあわせてマン・ツー・マンの拓殖講義を実践を通して展開し、海外拓殖のスタートの場所にしようというわけ・・・」と述べている。萩原建暁さん(65、北九州大)=サンパウロ市在住=は「教授という肩書きはとり、円の真ん中に入り学生の質問に答えてくれた」と当時を振り返る。
同書にはさらに、「私費を投じて三重県志摩半島の一角に土地を購入、日本フロンティアセンターを建設し、海外を志向する青年を育成する場として、また拓殖教育実践の場として南米をはじめ、北米カナダその他に移住、または開発途上国への奉仕活動に参加するものを多数育成した」とある。
後藤会長は土地を拓きプレハブ小屋を建てるところから始め、まずは日大・海外研究部の合宿の場として提供した。学生自らが建設作業に従事し、井戸も掘った。近くのお寺や農家と交流し世話になりながら、合宿所の完成に向け一丸となっていた。67年に第一期建設計画を掲げて以来、風呂場、炊事場、トイレ、食堂など次々と完成していき、ついに70年5月、「日本フロンティアセンター」が完成した。
徳力啓三さん(68、三重、三重大・南米第5次)=サンパウロ市在住=は後藤会長について、「センターの井戸を掘ったり、広場を作ったりと、ずっと一緒に付き合ってくれた」と思い出を語る。今でも夫人の陽子さん(旧姓・栗林、相模女子大)は後藤会長から結婚を記念して贈られた書『光る家心も円く住む二人』を飾ってある。
徳力さんは「先生はいつもニコニコされていた。全学連についても触れ、日本だけでなく、海外に出て働かないといけないと、コンコンと聞かせてくれた。それに『一代では何もできない、三代経って、孫が何を出来るかが大切』と聞かせてくれた」と懐かしそうに語った。
南米第5次団の21年後、総合第16次団の金原正幸さん(45、埼玉、東京外大)=サンパウロ市在住=も「近くの農家の藪刈り(伐採)や田地返しをしたりした。経験したことがなかったので面白かった。さらに1キロ先の島に遠泳をしたりして、珍しい経験ができた」と思い出を語っている。
センターの三角旗には「T・S・W」、すなわち「Think Study and Work」で後藤会長の「実践拓殖学」の精神が現れていた。
記念誌によれば、64年2月に建設を開始し、70年5月に落成式を行うまで、その過程が自ずと学生にとってのワークとなり、開拓精神を伝えるモノとなっていた。以後、全国合宿では長年にわたって大勢の連盟員が同センターで鍛えられ、ブラジルを始めとする世界各地に飛び立っている。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=日本フロンティアセンターで、総合第7次団の出発前合宿(1976年)(日本学生海外移住連盟創立50周年記念・記録写真集より)