ニッケイ新聞 2010年6月23日付け
ちょうど学移連が創立30年を迎えた年、第16次海外学生総合実習調査団として金原正幸さん(45、埼玉、東京外語大)がアニャンゲーラ日系クラブの日本語学校(森脇禮之校長)に日本語教師として派遣されていた。すでに当時、加盟校数は一ケタ代にまで減っていた。
金原さんは学移連を選んだ理由に「正直に言えば補助があったから」と語る。当時、飛行機の往復運賃は60万ほどで、十分自力で行ける時代だった。
金原さんが研修をした学校の生徒のうち9割は日系人で、子供だけでなく大人の夜学もあった。日本語熱が盛んでビデオやOHPを使って教え、「まだまだ日系の子供が多かった」と振り返る。
しかし、金原さんは経営上などの問題から解雇され、さらには学校内部の混乱から160人中、130人の生徒が辞めていった。その頃、森脇氏と共に新しい学校を始めようとなり「だるま塾」を開設、後半はその手伝いをした。
当時は〃移住〃の時代ではないことが明らかで、金原さんらは「学移連という名前だと学生が増えない、改名しよう」となり、盛んに論議をしていた。「ワールドハウス21」など次々に案が浮かび夜中まで話し込んだ。しかし誰が先輩やOBを説得するか、また、JICAから助成金がとれるかわからなくなる、といった理由でこの話は立ち消えになった。
帰国後は後輩を送り出すための企業回りをした。金原さんは「そういうこと(寄付集め)は好きだった。経済5団体から推薦をもらい、好景気のところや円高差益で儲かった輸入業は寄付をくれたね。面白かったのが、どこの会社も、他社が幾ら出したのかが気になり、金額を聞いてきた。結局200万くらい集まり、営業のように成績表をグラフ化したりした」と思い出を語る。
その前年の84年10月、外舘雅弘さん(農大)がオートバイによる南米縦走の旅をスタートさせている。1年半、中南米10カ国を訪ねるものだった。当時の連盟員は、国際化が進む世界で生きるパイオニアとしての日本人や、さらには学移連の存在意義や方向性を確認するために、それを海外に住む日本人や日系人に求めた。各地でアンケート調査をしながら旅を続けた。
創立30周年時には3つのイベントが開催された。まずは前述した南米縦走キャラバン、そして6月、2人の学移連OBが「優良移住者」として国際協力事業団の招待で訪日し、全国遊説で講演などを行った。
さらには9月、ブラジル側で、独立記念日に合わせて「学移連30周年記念南米大会」が開催され、ブラジルをはじめ、パラグアイからもOBが駆けつけ、80人で盛大に祝った。中にはブラジルに移住し、二世の夫人を同伴した元連盟員もいた。
また、総合第16次で派遣されていた4人の学生とOBとで討論がなされ、今後の学移連や南米について話し合いがされる一幕もあった。
このように、大変な盛り上がりをみせた30周年だったが、時代が進むとともに、その活動も縮小を余儀なくされていった。(つづく、金剛仙太郎記者)
写真=第16次団で派遣された金原正幸さん