ニッケイ新聞 2010年6月26日付け
去る4月25日のオ・エスタード・デ・サンパウロ紙は3分の1ページを割いて、弓場農場のリポートを発表している。ブラジル1とか第2とか言われる大新聞が、小粒ほどの農場をとりあげて、貴重なページを割いたのは希有のことであり、コロニアにとっても、記録すべき出来事と言っていいだろう。このリポートは、小さな世界に60人が、勤労と祈りと芸術を愛する共同生活の楽園を作っている、きわめて珍しい生活様式の実相を探り、こういう楽園のあるということを紹介する意図であるらしい。外から見ればきわめて単調な生活にもかかわらず、60人の住人はこの農場から出る気はないという言葉に探訪記者は不思議なものをみるように驚いている。
型破りだった弓場勇
1950~80年頃の邦語3つの新聞には、弓場農場主弓場勇の型やぶりの行動がしばしば話題を提供したものであります。
その頃は、日本からくる名士や観光客たちには、日本に帰って、日本移民の社会、活動状況、発展ぶりなどを土産にするには、3つの共同機関の実態の観察を見落としてはならない、と参考に供したものである。
その3つのうちの2つとは、その農業生産量、流通量、国外にも支部を開設し、それらを統括する機関、いずれも南米一を誇るコチア産業組合と、サンパウロ食料配給局セアザ(初代局長・須貝アメリコ市議)だ。
セアザはサンパウロ市営であり、1千万人を越える市民の食卓を賄うために市が建設したものであるが、この南半球一の食料配給局を実際に動かしているのは日系人である。サンパウロ州から供給されてくる食料品をその日のうちに配達する機関であるから、その場内で働く人々の動作は、大きな蟻の巣をつついたときの混乱に似ているが、その混雑にもかかわらず、あるべきものはあるべきところにあり、搬出されるべきものは搬出されている。その秩序には観光客を唖然とさせる。
日本の市場の混雑も大変らしいが、誰でもセアザの活力には圧倒させられるのも事実である。
3番目に忘れてはならないのは、コロニア名物の1つといわれている弓場農場である。
1960~80年の頃は邦字3紙には農場主弓場の型はずれの行動が話題を提供して、紙面を賑わせていたものである。農場の規模は先の2者に比較しようもないほどちっぽけなものである。
奇抜なのは弓場勇の矛盾を孕んだ言行であると同時に実行力である。白樺派の文人武者小路実篤が創設した〃新しき村〃が完成に至らず、脆くも消滅したのに比して、1935年開設から彼が亡くなるまで(1976年)継続してきた執念と情熱は並外れである。この執念が現在に至るまで継続している人々の魂となっているのであろう。
議論重ねて青写真練る
本文は弓場農場の歴史を書くことを目的としていない、また弓場勇の人物論を試みるものでもない。ブラジルに移住してきた弓場勇が、ブラジルに〃新しき村〃の開設を企画し、青写真をつくる過程の一部を、現在知る人は一人もいないと思われるので、書き止めておいたら、将来無益に終るはずはないと考えたからである。
知る人が一人もいないだろうと推理するのは、青写真をつくる過程を現場で目撃した武本由夫から直接聞いたからである。武本由夫が誰にも話していないならば、その間の事情を間接的にではあるが、聞いたのは私一人しかいないと考えられるからである。
1940年以前に聞いた話であるから、細かいことに、記憶違いがあるかも知れないが、重要な事柄には間違いはないと思っている。
弓場勇は兵庫県の出身である。熱心なキリスト教信者であったと同時に文学少年であった。武者小路実篤の作品と思想に触れて人生観が変った。特に武者小路のトルストイ論を読み、忽ち魅了され、トルストイの全作品を読み漁り、完全にトルストイーアンになった。
武者小路はトルストイのウマニズム(人道主義)からヒントを得て、白樺派文人を集合し、大正7年に〃新しき村〃の創設に手をつけたが、理想と現実とはうまくかみ合わなかった。全日本の知識層から、新しく生れる共同生活から新しい社会現象が発生することを社会は期待した。しかし、武者小路自身新しき村に2、3年居住しながらも挫折を避けることが出来なかった。
弓場青年は、挫折を納得できず、放棄されてからもかなりの年月を経過しているにもかかわらず、挫折の原因を突き止めるべく、日向の假村になった〃新しき村〃の跡を訪ねた。廃墟の村には2家族か3家族の昔からの住人がいた。この住人たちから当時の実状を聞いた。弓場勇がこの住人たちの話から感じ取ったのは勤労精神の希薄ということであった。
1926年、弓場一家はブラジルに移住してくる。ノロエステ線ミランドポリス市のアリアンサ移住地に住居を構える。そのうち、アリアンサ移住地に樋田徳重という、弓場勇よりももっと強烈なキリスト教信者で、もっと強烈なトルストイーアンを知る事になる。樋田徳重はその頃アリアンサ日本語学校の先生をしていたのと同時に、青年会の指導委員であった。
樋田徳重はトルストイの著書は全部書架に取り揃えていた。毎年トルストイの命日には独りでミサを捧げていた。この行事は死ぬまで続いた。その敬愛ぶりには弓場勇も脱帽するほかなかった。何時からか、弓場勇は土曜日の夜は樋田徳重の自宅にきて、夜が更けるまで2人で宗教論、芸術論、トルストイ論を飽きもせず語り合った。
弓場勇はブラジルに移ってきた時に、ブラジル的〃新しき村〃開設の企画を立てた。樋田徳重の理想論型とはなかなか合致点が見つからない。普通だったら弓場勇の性格からして独断独歩するはずであるが、最も尊敬する友人であり、整然たる理論も展開するだけに、樋田の牽制を聞き入っていた。
1933年のこと、武本由夫は樋田徳重の家のカマラーダとして働くことになる。土曜日の晩は2人の対話を興味を持って聞くことになった。武本由夫が筆者に語ったのは、この1年間の対話である。ほぼ構想が出来上った時期である。
1933年サンパウロに於いて、日本語教師検定試験が行われた。樋田徳重はもちろん参加した。試験は幸いパスした。その折、岸本昂一と知遇を得る。岸本昂一は樋田徳重の2世日本語教育論を聞き、その情熱にすっかり感動する。
そして、自分が経営するピニェイロス区に在る暁星学園を任せるから君の理想とする教育法をやってみないかと誘導する。自分の人格と理想を認識してくれた岸本昂一に感謝し、アリアンサ小学校に後任者が見つかった後でよいなら、暁星学園を預かるという条件で話を決めた。
ラトビア移民参考に
弓場勇はバストス移住地から5、60キロ奥にラトビア移民の植民地があり、共産主義的な共同生活を営んでいるという話を聞いた。早速探訪に出かけた。第一次世界大戦の犠牲者のラトビア人30家族は故国を捨て、戦争のないブラジルにやってきた。同胞のほとんどいないブラジルであるから、肌を温め合うような生活をしていた。置かれた状況は自給自足を強いられた。農産物の販売は協同でするほうが得策であるので産業組合をつくり、農機具、種子、その他必要品はみな組合の手を得て購入していた。誰かが発病しても、組合が医療を取り計らうように決めていた。
弓場勇は細かく観察して、大変合理的組織であるとみた。しかし、帰ってからもう一度点検してみると、平和な共同生活ではあるが、何かが不足しているような感じを受けたことを思い出した。何だろうと考え続けた。
そして、思い至ったのは芸術という心を豊かにする潤いだった。武者小路の新しき村では勤労精神が不足していた。このラトビア人の共同精神には物質的には大きな不足はないが、五感のみで生きる生活は長くは続かないであろうと、自ら結論した。
1933年の暮れに、それまでの何年かを〃新しき村〃開設に関して弓場勇と共に検討した樋田徳重は、自らの道を求めてサンパウロに移転していった。したがって、武本由夫の証言もここで終っている。弓場勇がアリアンサ移住地のフォルモーザ区に41域(アルケール)を購入し、ブラジル的新しき村「弓場農場」を開設したのは1935年のことであった。