ニッケイ新聞 2010年7月7日付け
1932年7月9日、サンパウロ州民は政府を相手に命をかけて戦い多くの人員を失ったが、それは後のブラジルの歴史を変えた―。今年は週末三連休となる7月9日のサンパウロ州独自の記念日「護憲革命記念日」に関し、4日付エスタード紙がその歴史を紹介した。
その当時、伝統的な大農園主らを支持基盤に持たないヴァルガス政権は、軍政下で青年将校や都市中間層、労働者の支持を求めていた。報道機関の閉鎖や憲法放棄の暴挙を行い、中央集権化を目的に執政官として将校を派遣し州政にも干渉した。
サンパウロ州では執政官派遣への不満や新憲法制定を求める動きから、憲法擁護を訴える人々の間で憲政議会開催を求める声が高まっていた。1932年7月9日選挙執行を要求する革命運動が立ち上がり、国家を愛し人民の安全と自由を謳う志願兵がサンパウロ州各地から集まった。
サンパウロ州民は戦う気力に溢れていたが、軍警察からなる政府軍を相手に、十分な軍需品を持たず特別な訓練も受けていない志願兵達の戦いの結果は明らかだった。
リオ・グランデ・ド・スル、ミナス・ジェライス、マット・グロッソ、アマゾナス州などから参加の声明が届いており、援軍の派遣をも期待したが実現することはなく、サンパウロ州民は政府軍を相手に単独で戦い続けた。
最後まで希望を捨てなかったとされるサンパウロ州民は、10月3日に制圧されるまで87日間にわたり戦った。運動を開始した当初、約5万人だった志願兵の登録は闘争が続くにつれ、20万人まで増えたとされている。
この革命では武力による勝利は得られなかったものの、1934年7月16日、ヴァルガス政権での共和制において二番目となった新憲法制定を促したことをサンパウロ州民は誇りとしている。
サンパウロ州にはこの革命運動を称えた記念碑が建てられているほか、通りや建築物の名前を通してその歴史が伝えられている所も多い。革命の英雄達の名前が刻まれたサンパウロ市イビラプエラ公園の高さ77メートルの記念塔やノーヴェ・デ・ジューリョ(7月9日)大通りは良い例だ。
また、サンパウロ市セー広場近くの革命中寄付された金(きん)の残りを資金にして作られたという建築物は「Ouro para o bem de Sao Paulo(サンパウロ繁栄のための富)」と名付けられている。