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研修生の歴史後世に=思い出の農場に記念碑

ニッケイ新聞 2010年8月6日付け

 東山農業研修生事業は推進者の山本喜誉司氏が63年に死去し、経営母体の東山農事の決定により3回の派遣で終了した。60人で終わった同制度だが、卒業生のほとんどがブラジルに残り、産業組合や移住事業団、農薬・肥料会社などそれぞれ農業関係の分野に進んだ。3人は農・水産学の大学教授に、神父になった人も2人いる。
 研修生たちは農場での1年半の生活の間、ポルトガル語の勉強のほか、ブラジル事情の講義、各自の専門の実習、研究などを行い、知識を磨いた。中にはうなぎ養殖やマツタケ栽培を行なった人もいたという。
 ブラジル人教師のほか、半田知雄氏がポ語文法を教え、そのほかアンドウ・ゼンパチ氏、佐藤常蔵氏らも講義を行なった。二回生で渡伯、卒業後移住事業団職員となり、パラー州第二トメアスー移住地の造成などに携わった山中正二さん(72)によれば、週末を同農場で過ごす山本氏がコーヒーに関する講義を行なったこともあったそうだ。
 この日落成された記念碑の石はスザノから運んだもので、重さ約10トン。前面に「我らが新しき人生の基いとなりし地」、背面に研修生の氏名と、山本氏、指導者の三上藤三郎氏らへの感謝の言葉が綴られている。
 碑の設置を担当した長友契蔵さん(72、二回)は落成式で、石切り出しに協力したスザノの松堂忠顕氏、碑文を揮毫した若松如空氏へ感謝を表し、「将来この記念碑を眺め、研修生に思いを馳せる人がいれば幸いです」と述べた。
 碑前での記念撮影には、岩崎農場主のほか、山本氏の息子で唯一健在な坦カルロスさんも加わった。
 北京で生まれ幼時に渡伯した坦さん。「父が作ったもの。私はついてきただけですよ」としながらも、農場での仕事、山本氏の論文を手伝った思い出などを振り返っていた。
 一回生で卒業後64年まで農場に残った西忠久さん(74)によれば、制度の終了後、一回生の有志で継続しようとしたが資金不足で断念したという。
 週末に来る山本喜誉司氏は「いつも農場内の植物園を歩いていましたよ」と振り返る。その後、92年から農場長も務めた西さんは、「僕にとっては最高の場所ですよ」と話した。