ニッケイ新聞 2010年8月14日付け
あの「8月15日」は暑かった。国民学校に入学し防空頭巾をかぶり、敵機が来襲すれば手で耳と目をふさぎ木の下に退避をと教わったので「センソウ」は知っていたが、勿論、難しい戦争のことはわからない。家から10分も走ると寺があり、そこから見ると遠い仙台の空が真っ赤になっているのを面白がったりもした。米軍の空爆で家屋が燃え盛るのであり、笑ってはいけないのだが、そこは幼い1年生である▼あれから65年。生まれ育ったところは、電気もないような山奥だったが、砂糖はないにしろご飯に困るような苦しさはなく、洋服は継ぎ接ぎだらけだったが下駄履きで学校に通いよく遊んだの記憶が色濃く胸に刻まれている。東京などの都会では、食べる物もなく焼夷弾で家を失い艱難と辛酸を嫌というほど味わった。だが―1日も早い復興をと額に汗して働き、道を造り建物を築き「明日に向かって」歩み始めた▼こんな苦心が実り花開いたのは、やはり東京オリンピックであり、東京と大阪を結ぶ新幹線が開通したのも昭和39年(1964年)だったし、これより1年前の昭和38年には、天皇・皇后陛下がご臨席する「全国戦没者追悼式」が日比谷公園で初めて開かれ恒例化し今に続く。無論、バブル崩壊などの負もあるが、GNPで世界第2位になり経済大国になって現在に到り繁栄を謳歌している▼明15日は65回目の終戦記念日だが、戦争の厳しさを若い人々に語り伝えるのは大切だが、廃墟から立ち上がって豊かで楽しい社会を目指して苦闘した多くの先輩らへに感謝をも忘れないで欲しい。(遯)