ニッケイ新聞 2010年8月19日付け
弊紙の土曜版に掲載される「国際派日本人養成講座」は、日本語を勉強している若い人たちを対象にしたものだが、近頃は硫黄島防衛の指揮を取った栗林忠道中将や「沖縄県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を軍次官に発した仁愛の将・大田實海軍中将を取り上げるなど真に興味深い。大田中将の記事には沖縄知事の島田叡氏もあり、住民の避難に尽力し摩文仁の丘には県民らによって「島守の塔」が建立されている▼そして先週は戦争が終わって直ぐに昭和天皇が沖縄を除く都道府県にご巡幸なされた話を詳しく報じている。最初にご訪問になったのは神奈川・川崎にある昭和電工であり、ここは食糧増産のために硫安肥料を生産していたが、あの空爆で施設の70%が破壊され工員らは修復に懸命だったそうだが、陛下は親しく声を掛けられ励まされたそうである。この庶民のなかへ深く入って激励するご旅行は3万3000キロに及び、筆者も小学2年のときに学校の前の県道に整列しご一行をお迎えしている▼あの頃は、食べる物もなくまさしく飢餓の時代だったこともあり、陛下は粗末な洋服やモンペ姿のご婦人らに「食べ物は大丈夫か」と話しかけ、当時の大切なエネルギーだった石炭の産地・福島の常磐炭鉱では地下450メートルの坑道も歩かれ「あつさつよき常磐の里の炭山にはたらく人をををしとぞみし」と詠まれた▼食糧もだしホテルも少なく、陛下はお召し列車や学校の教室に寝泊りしてのご巡幸であった。この陛下と皇后さまの奉迎者は数千万人に及び復興の礎となって今日の繁栄に繋がるのを忘れまい。(遯)