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祖国ブラジルを護れ!=2次大戦参戦の児玉さん=日系兵士唯一の生き残り=笠戸丸移民の子供

ニッケイ新聞 2010年9月7日付け

 「僕らはブラジルのパトリオッタ(愛国者)であることを証明するために戦場で戦った」。ブラジル独立記念日(7日)にあたり、笠戸丸移民の息子にして第2次大戦のブラジル遠征軍(FEB)に参戦した二世兵士の唯一の生き残り、児玉ラウルさん(93)に、イタリアでの過酷な戦争体験を聞いてみた。爆撃を受けて負傷し、米国で治療を受けて帰伯したら、同胞社会は勝ち負け抗争のまっ最中だった。その後、父の故郷、さらにイタリアの戦跡を訪ねた時、老兵士の目には涙がにじんでいた。

 第2次大戦時、ブラジルが独伊両国に宣戦布告したのは1942年8月だったが、実際に遠征軍がイタリア戦線に到着したのは2年後の44年7月と、すでに戦局が終盤にさしかかった頃だった。送られたのは2万5千人、うち約50人が日系兵士だったが、現在まで生き残っているのは児玉さん一人。
 44年6月6日に実施された連合国軍がノルマンディ海岸に上陸する作戦後で、ほぼ大勢が決まりかけていた時期だった。
 児玉さんが召集を受けて、砲兵隊の伍長(cabo)としてリオからナポリに派兵されたのは9月だった。同隊には約10人の日系兵士がいたが、軍曹どまりで将校クラスは一人もいなかった。
 「僕は日本語がまるっきりダメ。ちゃんと学校いってないからポ語すらも怪しい」と謙遜する。父は13歳の時に笠戸丸で渡伯、耕地を夜逃げした後、サンパウロ市のブラジル人宅で小遣いとして働いたためポ語に堪能で、家では日本語を使わなかった。
 プレジデンテ・プルデンテに移転、父はトラック運転手をしてブラジル人社会の中で生活していた。児玉さんが召集された44年、同胞社会は日本のナショナリズムの影響が強く、「あの頃、ブラジル人からジャポネースは(日本の)パトリオッタだと思われていたから、僕ら二世はブラジル人であることを証明するために志願し、命がけで戦った」と力を込めた。
 米軍の指揮下に入った遠征軍は共同戦線を張った。「米軍の日系兵士(442部隊)とも顔を合わせたが、言葉が通じないから話はできなかった」とも。45年1月、児玉さんは前線でまじかに爆撃を受け、重傷を負った。
 悪化して精神障害まで起こしたため、米国に移送され、半年ほど治療を受けて46年初めに帰伯、リオの病院に再入院した。
 ようやく社会復帰した頃、同胞社会では勝ち負け抗争が激化していた。児玉さんは間に入って自らの戦争体験を語り、説得に歩いたという。「それぞれの国民は自分の国を護らなきゃいけない。ここではパトリア(祖国)はブラジルだ」。でも治まる気配はなかった。「同胞が同胞をだます悲しい時代だった」。
 88年、移民80周年の折り、父の故郷広島に一緒に訪れた。戦争で受けた精神障害の再発を恐れ、親類は平和資料館に連れて行かなかった。「親族はとてもよくしてくれた」と思い出す。
 96年、今度は半世紀ぶりにイタリアの戦跡を訪ねた。本人は「町の様子が全く変わっていた」と言葉少なげだが、同行した妻アリッセ・洋子さん(76、二世)は「その時、夫は戦友の墓を探し出しては大泣きしていました」と証言する。
 移民百周年の前年に日系初の軍人最高位、斎藤準一空軍総司令官が誕生した。でも、そこに至る最初の一歩は、児玉さんのようなパトリアを護る幾多の日系兵士という存在にあった。