ニッケイ新聞 2010年9月10日付け
かつて南米銀行本部があったビルの隣で営業していたカラオケ『モンブラン』が先月末、43年の歴史に幕を下ろした。進出企業の重役レベルやコロニアの重鎮が通うクラブとして名を馳せ、〃夜の商工会議所〃とも言われた同店のママ、チエコさん(65、東京)に話を聞いた。
モンブラン、名前の由来
モンブランっていうのはね。私たちが東京に住んでいた頃、よく目黒の自由が丘の喫茶店に行ってたのよ。その店の名前が「モンブラン」。
東郷青児の絵なんか飾ってあってね。それを拝借したってわけ(喫茶モンブランは昭和8年創業。日本で初めて、ケーキ「モンブラン」を提供したことで知られる老舗。現在も営業中)。
最初は喫茶店とレストランで半分半分でやってた。数年後には、クラブになったんだけどね。内装には凝ったんですよ。ジャカランダ材を使ってね。日本から来た人も『銀座か大阪の新地にいるみたい』って言ってくれる人もいてね。
バンドも入った高級クラブ。バンドマンとしてその舞台に立った坂尾さんは語る。
特筆すべきはね。カゼー(Caze)っていうブラジル音楽史上最高っていっていいサックス奏者のクアルテットが最後に演奏した場所。68年。そのベースが私でね。ミルトン・バナナやマエストロ・ピッパーとか有名なバンドマンが覗きに来る。
その頃は、ブラジル、スタンダードを半々で演ってた。時々日本の音楽も入れてね。雰囲気はもう最高にシック。他のブラジルのクラブと比べても全く遜色ない。
カゼ―が最後にクアルテットとしての演奏をした店なんだから、ブラジルの音楽史上に残ると言ってもいい。
そうそう、近ちゃん(近藤四郎在聖総領事)がいつも酔っ払ってた。よく覚えてますよ。新聞記者なんかがいても「おい飲め!」って調子でね。今とは違って人間味があったよね。
当時のホステスは日本人女性ばかり
最高で30人の女の子抱えてました。ほとんどが花嫁移民。ほら、写真でお見合いして、こちらで本人と会わけだから、やっぱりね…。
それに、知らない土地で田舎暮らしがきつくて、サンパウロに出てくるわけ。青柳(ジャバクアラ区にあった高級料亭)なんかは住み込みでしたよ。
女の子たちもお金ないから帰れないでしょう。だからうちに来るんだけど、そうねえ、3、4年したら帰りましたよ。
それだけお金が貯まったってこと。チップが凄かったからね。バタテイロとか豪快だった。
だから70年代はよく応募に来たわよ。悩みや相談を受けること? 私はなかった。若かったし母は聞いてたんじゃないかな。(つづく)
写真=サックス奏者カゼー(右)が最後にクアルテットとして演奏した。坂尾英矩(左、写真提供)がベースを担当。1968年、モンブラン店内で撮影