ニッケイ新聞 2010年9月11日付け
どんな人が印象に残っていますか
やっぱり、一番は児玉誉士夫さん(右翼の大物。ロッキード事件の秘密代理人。政財界の黒幕と呼ばれた)。
ヤクザみたいな雰囲気。誰だか知らなかったし、何だろうこの人って感じだった。まず喋らない。女の子が色々話しかけるんだけど「ふんふん」って頷くだけでね。
サンパウロ新聞の水本光任さんっていうのは、いい人だったねえ~。まず気前が最高に良かった。色々言われる人だけど、夜の世界で悪口言う人は、まずいないですよ。
義理人情に厚くてね。年始には、母といつもご挨拶に行ってました。そしたら指輪くれたりして。「うちの記者が来たら飲ませてやってくれ。請求は回してくれたらいいから」ってね。
南銀があったから、橘富士夫さんをはじめ、みなさんよく来てくれました。
日本から来た芸能人なんかは丹下セツ子さん(当時、同じビル内でレストランを経営していた)が連れてきてくれたよね。
女の子を巡る事件なんかもあった
そりゃあ、ありましたよ~。進出企業の社長さんなんかで単身赴任で来てる人も多いでしょう。女の子と仲良くなったのはいいけど、振られちゃってね。酔って店のなかでそれこそ刃傷沙汰。まあ酒の席でのことだから、次の日になったら、なかったことになってましたけどね。
23年間、切り盛りしてきた
よく言われるのよ。「ママっぽくない」って。華やかで美人だった妹が継ぐとみんな思ってた。でも妹は結婚して日本に行っちゃった。
私はママなんてやりたくなかった。でもね、「妹がやってたら、こんなに長くやれてなかっただろう」って言う人もいる。面白いよね。
店を始めて20周年の87年に母からバトンタッチ。それまでは良かったのよ。進出企業も多かったしね。その後、いきなり厳しい状況になったってわけね。カラオケには最後まで抵抗した。けど、時代の波には逆らえなかったね。
当時2階が高級クラブ、1階は少々気楽なスタイルだった
多少の値段の差があったんですよ。でもその「高級で敷居が高い」っていうイメージが尾を引いたのね…。
一時期足しげく通ったという山田彦次岐阜県人会長は言う。
「進出企業の人が多かったからねえ。コロニアとは、一線引いてる感じがした。でも、ああいう店は当時なかったから貴重だった。日本の人を連れていっても恥ずかしくないって意味でね。
一度酔っ払ってたこともあって、『いらっしゃいませも無しか』『中腰で挨拶するのか』なんて、ワーワーやったことがありますよ」
8月27、28日、『お別れの宴』として営業した。
ここに住んでる人は情がありますよね。「辞めるんだねえ~」って沢山来てくれました。昔の常連さんは、みなさんご高齢になってますよね。
辞めるきっかけ? 私65歳になるんですよ。そりゃあ、あと5年くらいは、まだできますよ。でもこの歳の5年は大きい。やりたいこともあるしね。
そりゃあ、何年も考えましたよ。でも日本なんか行っても、今の若い人は飲まないものね。もう無理よ。
体が丈夫なときに辞めようって思ったのね。仕事やってるから出来ないことも多かったしね…。悔いはありませんよ。まあ普通の女に戻るってわけ(笑い)。
夜の社交場として、華やかかりし日本人社会を彩ったモンブラン。8月31日、その灯りは静かに消えた。(おわり)
写真=日本人社会の盛衰を見続けたモンブランの入り口