ニッケイ新聞 2010年9月14日付け
日本のテレビ放送開始は1953年だったが、ブラジルでは一足早い50年9月に放送が開始された。
〃ブラジルのメディア王〃とよばれたアシス・シャトーブリアンが、ジアリオス・アソシアードスにテレビを加えるために米国から放送機材一式を購入し、9月18日にテレビ・ツッピーで試験放送したのが嚆矢とされ、エスタード紙12日付けはその特集記事を組んでいる。
シャトーブリアンのメディア王国の最盛期には36紙の新聞、18の雑誌、18のテレビ局を包する独占状態を築くまでになった。戦後まもなくのテレビ放送開始は、彼の悲願でもあった。
当時は全て生中継であり、カメラも一台しかなかったという。肝心のテレビ受像機も国内にはまったくなかったから、シャトーブリアンは200台を輸入してサンパウロ市の人通りの多い目立つ場所に設置した。
ツッピー局のスタジオはサンパウロ市スマレ区の一区画にあり、そこにはドラマ撮影用の教会、酒場、広場、床屋、バンカなどが作られ、付近には局関係者が多く住んでいた。68年にシャトーブリアンが亡くなると、徐々にその勢いを失い、80年にはTVツッピーも閉鎖した。同局の4つのスタジオも現在はMTVブラジル、ESPNが後を継ぐように使用している。
ビデオテープ技術が普及した60年代に、全伯にTV局が広がる基盤ができた。サンパウロ市やリオで開局が進み、この2都市で撮影された映像が、全伯で放送されるビデオ映像の8割を占めるまでになった。
カラー試験放送は62年から始まったが、本格的にカラー受像機が普及したのは、70年のW杯メキシコ大会だった。
一方、サンパウロ市北部のビラ・ギリェルメ区の周辺はTVエゼルシオル(62~1970年)が、その後はTVS、SBTが生まれ、テレビ史に様々な歴史を残している。しかし、SBTが97年に現在のアニャングエラ街道に移転してから、この地区も火を消したようになっている。
サンパウロ市南部でも、モエマ区のミルナ大通りがレージ・レコルジ、レージ・ムリェールによって一時にぎわった。現在は南部のビラ・オリンビア区、西部のビラ・レオポルジーナ区がテレビ・プロダクションの集中地区になっている。映画「シダーデ・デ・デウス」の監督として有名なフェルナンド・メイレーレスらが経営するO2フィルムなど、少なくとも一ダースのプロダクションがあり、多くの有線放送局も集中している。
メイレーレスはエスタード紙の取材に、「ビラ・レオポルジーナにプロダクションが多いのは、なんと言っても大型倉庫がたくさんあるから。しかも居住区に近く便利な場所」と答えた。
1965年にリオで生まれたTVグローボは、現在では「世界で4番目に大きな放送網」といわれるほどに成長した。07年12月2日にサンパウロ市で放送開始された地デジ日伯方式は、世界で最も前進的な技術を持つ放送として注目を浴びている。