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沖縄からシベリア、そして南米へ=~松本實隆さんの記憶=(下)=3年の抑留経て故郷へ=いまブラジルで家族に囲まれ

ニッケイ新聞 2010年9月16日付け

 抑留から3年近くが過ぎた1948年春の朝、突然松本さんに帰国命令が出た。抑留者への帰国の命令はいつも突然だったという。「本当に帰れるのか、夢にも思わなかった」
 そのまま港へ向かい出港。船は5月ごろ、舞鶴港へ到着した。「命は助かったな、と思いました」、松本さんは60年以上前の感慨を思い起こす。
 同地で約20日、その後は長崎県佐世保港の施設で約40日間留め置かれ、ふるさと沖縄の土を踏んだのは約2カ月後。冬の鍛冶屋仕事でできた手のひび割れは、沖縄に着くまで直らなかった。
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 出稼ぎのつもりが4年以上に及んだ家族との離別。舞鶴で沖縄玉砕を知った松本さんは、土産に買った鍋とともに、不安を抱えながら帰郷した。その時の気持ちを尋ねると、「何とも言えないですね」と答える。夫人や両親は無事だったが、祖父母、長女は戦争中に亡くなっていた。
 戦後は那覇で再び大工の仕事に従事した後、54年6月、松本さん一家はボリビア第一回移民として海を渡り、第一オキナワ移住地へ入植した。「沖縄では仕事が少ないし、ボリビアでは50町歩が無償で提供されると聞いて決めた」という。
 同地では農業に従事し米やミーリョを栽培した。作物はできたが、「売れなきゃ赤字」。移住地からアスファルト道路まで50キロの土道も、雨が降れば通れなくなった。
 一家の生活を補ったのは、ここでも松本さんの大工の技術だった。7人の子供を育て、入植18年目の72年、子供たちの生活を考えてブラジルへ転住する。
 順調だったわけではない。同地生まれの二世は鉄道でブラジルへ行くことができたが、一世には転住の許可が出なかった。そこでアルゼンチンを経由してブラジルへ移ったという。
 転住後は現在も暮らすサンマテウスへ住み、県系人が多く従事していた縫製業からはじめ、その後フェイラでのパステル販売を手がけ、子供たちに仕事を譲った。いつの間にかブラジルでの生活が一番長くなっていた。苦楽をともにした夫人のサヨさんは5年前に亡くなった。
 「今は、朝はゲートボールをして、昼からは新聞を読んで暮らしています。ひ孫が近くに住んでいるから賑やかですよ」と破顔一笑する松本さん。県人会サンマテウス支部のゲートボール愛好会長、老人会長などを務め、現在孫、ひ孫ともに22人。先日行なわれた米寿の祝いには、ブラジル、日本に住む家族や親戚など、200人以上が集まったという。
 1992年、宮沢喜一首相の時代に元抑留者へ苦労をねぎらう賞状と銀杯、10万円の一時金が贈られた。松本さんもその時に受け取り、今も大切に保管している。正月はその銀杯で屠蘇を飲むのが習慣と顔をほころばせる。
 今回成立した一時金支給の法律については、「やはりありがたい」。遅かったかと尋ねると、「生きているうちにもらえれば幸いです」と話す。その一方、「本当はロシアからあるべきなのかもしれないが」と付け加えた。
 来年は故郷沖縄で、5年に一度世界の県系人が集まる「世界のウチナーンチュ大会」が開催される。
 「一時金が出たら、沖縄に行きたいですね」、松本さんは和やかな表情を浮かべた。(おわり、松田正生記者)

写真=日本政府から贈られた賞状、銀杯を前に松本さん