ニッケイ新聞 2010年9月25日付け
黄熱病や梅毒等の研究で知られる細菌学の権威・野口英世の業績を、オズワルド・クルス研究所(リオ市)のブラジル人研究者らがまとめたポ語著書『Cerejeira e Cafezais』(桜とコーヒー農園、Editora Bom Texto)が21日夜、文協55周年の一環として同貴賓室で出版記念講演会が行われ、著者3人が野口とブラジルとの関係などを語った。
山下譲二文協副会長は開会にあたり、「熱帯の感染病は、日本移民も苦しんできた関係が深いもの。野口の存在は日伯にとって傑人といえる」とあいさつした。
著者の一人で同研究所の研究員ジャイメ・ラリ・ベンチモル氏は、「当研究所に野口英世が足跡を残していることは余り知られていない。移民百周年を機に、これを知ってもらう本を出すことを思いついた」と説明した。1923年に来伯した野口がバイア大学で4カ月間講義した時、「米国人の学者は傲慢だったが、野口は実に謙虚だったといわれる」とのべた。
同研究員のマガリ・ロメロ氏も、「野口は日本移民と深く関わらなかったが、やはり北里研究所にいてブラジルに移民の公衆衛生指導にきた宮嶋幹之助もまた興味深い存在。宮嶋が渡伯した時には、すでにマラリア研究の権威として知られる存在だった。彼もアドルフォ・ルッツ博士(熱帯医学の父)やカルロス・シャーガス博士(シャーガス病発見者)らと交流している。もっと深く移民とも関わっています」と語り、日伯学術交流の先駆けを称えた。
1918年に渡伯調査した宮嶋は、北里研究所から持ってきた貴重な本一式をリオの国立図書館に寄付し、オズワルド・クルス研究所、ブタンタン研究所でも学術交流している。30年代にブラジル人研究者が訪日し始め、「日本各地の公衆衛生の高い管理状況を視察し、日本移民導入に対して好意的な報告書を上げた」という事実を明らかにした。
やはり著者の小玉香織さんは「宮嶋はサンパウロ州でレジストロに調査に行ってたくさん写真を撮ったりしている」と説明する。
来場していたブタンタン研究所の役員は、「30年間務めているが宮嶋の話はまったく知らなかった。新しい事実、視点が多く学ぶことが多い」との感想をのべた。
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1876年に福島県の貧農に生まれた野口英世は一歳の時に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負った。農作業のできない英世に母は「学問で身を立てよ」と諭して実現したことから偉人伝が数多く出版され、04年から千円札の肖像になった。
野口は1899年に米国に渡り、ロックフェラー医学研究所所員となり、梅毒の病原菌スピロヘータの研究などで世界の医学界にその名を知られる。23年11月にリオに到着、バイア州都で4カ月ほど教鞭をとり、翌24年にサンパウロ州レジストロなどで調査を行った。28年に西アフリカで黄熱病の研究中にそれに感染して死亡した。