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日本航空運休に捧げる投稿=〝一抹の淋しさ〟=石崎矩之(元旅行代理店勤務)=(下)=「またぜひ帰ってきて」

ニッケイ新聞 2010年9月25日付け

 1978年に日本航空がいよいよ定期路線化した当時、まだサンパウロのグアルーリョス空港はプロジェクトの時代で出来上がっておりませんでした。
 一方、コンゴーニャス空港は滑走路やターミナル・ビルの設備も不十分でいわゆる「ジェットの時代」に対応できかねており、不定期に使われるカンピーナス近くのヴィラコッポス空港を定期路線化するにはサンパウロから離れすぎております。
 そこで既に完成していたリオのガレオン空港(現在のトム・ジョビン)は、新ターミナルを完備、国内外の他社の利用も実質ブラジルの表玄関としてのハブ空港でありました。
 後にグアルーリョス空港に拠点を移すまでの定期路線は、将来の大型機化を見越してリオのガレオン空港から始まったのです。
 この路線開設の「祝賀飛行」という一大イベントが行なわれました。言わば、日本の経済界を司るメンバーで、まだお元気だった経団連会長の土光敏夫氏、日経連の名誉会長の櫻田武氏を初めとする錚々たるメンバーで、そのグループのツアーコンダクターと言っては失礼ですが、お世話役が何と当時の日本航空社長の朝田静夫氏でありました。
 地上手配、接待役は伊藤忠商事のリオ支店長以下の面々、そして陰での手配をツニブラ・リオ支店が担当しましたが、その責任は私にとって生まれて始めての出来事で責任重大、目の廻る思いでした。何とか無事スケジュールを終えられたのですが、このようにして正規の路線化が始まりました。
 当初はリオを発着点としておりましたが、1989年になり、今のサンパウロに近接するグアルーリョスに空港が完成し、大型機の発着も可能だというのでターミナルが移され、今日に至るのです。
 而来32年、懐かしの祖国日本とここブラジルを繋ぐ地球半周というだけでなく、ブラジルに住む日系コロニア160万人の〃心の路線〃として定着しておりました。
 ブラジルに飛来した、或いはしている日本航空の機体にあるマークの変遷は何度かありますが、主翼の日の丸は変わりません。尾翼にあるマークはチャーター便の頃から現在の味気ないものに変わるまでの間の丸い鶴のマークが一番印象的で記憶に残ります。
 日本というイメージの鶴を象り、遠くから見ると「日の丸」に見える、こんな素晴らしいマークをどうして、今のような味気ないものに代えてしまったのか。そして今、運休という名のもとに飛び去っていく「日本航空」。
 遠く祖国を離れておりながら、忘れ難いブラジルの一世移民の一人であり、また、旅行代理店勤務の頃、心身を賭して頑張ったチャーター便から脱皮し、正規路線化した今日。
 日本とブラジル間の切り離すことの出来ない国際関係、経済関係で言うならば、既に決定しているテレビ放送の地上デジタル化、来る2014年のサッカーワールドカップ、引き続き2016年には夏季オリンピックの開催地ブラジル。これらを目前に控え、大盛況だった移民百周年を過ぎたばかりのタイミングで「運休」という事態に、いささか困惑すると同時に、なんともいえない〃一抹の淋しさ〃を感じるのみです。
 聞けば、2016年のオリンピック開催には「復旧」したいという意向のようですが、ここで是非申し上げたいことは只一言、「日の丸の翼よ、また是非帰ってきてください」と。(終わり)