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ボリビアで生き抜いて~第34回県連ふるさと巡り~《2》=もう一つのオキナワへ=移民襲った「うるま病」

ニッケイ新聞 2010年10月21日付け

 2日目に訪れたオキナワ移住地は1998年に政府から行政区として制定された、日本国外で唯一「オキナワ」の名を冠した自治体だ。第一から第三まであり、全体をあわせると沖縄本島の面積ほどになるという。
 今回の旅には、沖縄出身の一世や二世など18人が参加。同県出身でJICAシニアボランティアとして老ク連で活動する与古田徳造さんも、三線を手に参加した。
 サンタクルスから約95キロ。途中の国道1号線の料金所に「OKINAWA 48km」の文字が見える。そこを過ぎて街道から1時間ほど走ると移住地だ。
 途中通り過ぎる町では、巨大な袋いっぱいのコカの葉を前にボリビアの婦人たち。バスから興味津々の一行に葉っぱを示して売り込む人も。
 ふるさと巡り一行を乗せた8台のマイクロバスは午前9時半ごろ、「文化会館」に到着。会館のある中心部には、行政組織や学校、診療所、農協など移住地の施設が集まっている。地元沖縄日本ボリビア協会の中村侑文監事(69)の出迎えを受け、まずは敷地内の慰霊塔へ向かった。
 太平洋戦争の地上戦で大きな犠牲を払った沖縄。同移住地は戦後の沖縄救済を目的に北部リベラルタの県人により立案された。現在の移住地からグランデ川をはさんだ場所に、「うるま植民地」が準備され、当時の琉球政府の計画移民として54年8月に第一次278人が入植する。9月には第二次が到着した。母県では、400人の募集に4千人以上が応募したという。
 沖縄方言で〃サンゴの島〃を意味する「うるま」。しかしグランデ川が氾濫すれば、周囲が水没、さらに同年末から謎の熱病が発生し、15人が死亡、148人が罹病する過酷な環境だった。入植者は翌年80キロ離れたパロメティーヤへ移転し、ようやく現在の土地へ落ち着いたのは56年のことだ。「うるま病」と呼ばれた熱病が、水位上昇で植民地へ逃げたネズミが媒介した「ハンタ・ウィルス」によるものと分かったのは4、5年前のことだという。
 同地には19次(64年)まで計584家族3385人が入植した。しかし入植初期の動揺、営農の困難などで、そのうち9割はサンタクルスやブラジル、アルゼンチンなどへ移ったという。本土復帰前の67年に移住事業団(現JICA)に移管され、現在に至る。
 慰霊塔の横と後ろの3面には、入植地ごとに亡くなった約350人の氏名、出身地と死亡年齢が刻まれている。初期の死亡者の中には一桁の年齢も散見され、苦闘の日々が偲ばれる。
 塔は04年の入植50周年で建てられたものだ。「それまでは別々だったが、いつかまとめたいと思い建立した。皆さんお祈りしてください」と中村さん。与儀県連会長とともに献花し、一分間の黙祷を捧げた。
 会館へ入ると、平日にもかかわらず移住地の婦人らが朝のカフェを用意してくれていた。中には揚げ菓子「サーターアンダギー」や、シモン芋の餅を月桃の葉で包んだものなど沖縄の郷土食も。聞けば、月桃は沖縄から持ってきて栽培しているという。
 与儀会長が地元の平良アメリアさん(54、三世)と話していた。実は平良さんはブラジル生まれで、県費留学もしている。同地の人と結婚し、現在は移住地で日本語、スペイン語を教えているそうだ。「ブラジルではできなかったことですから、役に立てれば」と話した。(つづく、松田正生記者)

写真=(右から)移住地の説明をする中村さんと、山田副会長、与儀会長/黙祷するふるさと巡り一行