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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2010年10月22日付け

 わずか一年のうちに4人もの邦字紙の先輩が立て続けに亡くなった。日毎紙の初期編集長の八巻培夫さんが昨年10月、サ紙元編集長の野口浩さんが今年3月、初期のパ紙記者だった本永群起さんが5月、先日は弊紙の前身である日伯毎日新聞創立者の一人、中林昌夫さんだ▼33年に家族で渡伯した時、まだ10歳だった昌夫さん。同年に父・武衛さんは、当時絶大な権力を誇った海興ブラジル支店の明穂梅吉移民部長の汚職を見るに見かねて告発する文章を書き、明穂氏との往復書簡を実名で日本新聞に公開した。それをキッカケの一つに、4邦字紙で一斉に海興批判キャンペーンが開始された▼当時、サンパウロ州新報記者だった故内山勝男さん(戦後のサ紙主幹)も「この事件が戦前で最も記憶に残る出来事であった」と日本の新聞業界誌に語っていた。故郷の茨城新聞で記者をしていただけあって、武衛さんの目は確かだった▼そのジャーナリストの血を引き継いだのが長兄の敏彦(日毎社長)、次兄の次男(印刷所の責任者)、三男の昌夫さんだ。1949年の日毎紙創立期、竹内秀一社長が一年ほどで退いた後、長兄を支えるべく「次男と二人で1日15時間働いた。家に帰る時間がなくて紙クズの中で寝たよ」と昌夫さんは語った▼毎週土曜にタバチンゲーラ街の日本食堂に親族一同集まって食事をしたので〃タバ族〃と称した。昌夫さんは40年近く日毎を盛り立てたが、「いつも金策に頭を悩ませていた。何度もうダメだと思ったかしれない」と振り返る。給与遅配など今も邦字紙経営は苦しいが、創立の志は無駄にしたくない。(深)