ホーム | 特集 | 偉大な遺産=コチア青年ファミリー=急務だった農業後継者=前例ない新しい移住枠

偉大な遺産=コチア青年ファミリー=急務だった農業後継者=前例ない新しい移住枠

特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 コチア青年の生みの親、下元健吉元専務は今はいない。しかし下元構想は見事な結実をみせ、コチア青年はブラジル農業界に大きく貢献し、子弟を立派に教育、さらに地域社会の発展にも尽力、多くのリーダーを輩出している。青年達は半世紀を経て、老齢期に入りつつあるが、今や、その後継者が育ち二世活躍時代に移った。事業面でも社会においても「コチア青年精神」を引き継いでおり、象徴的存在が、青年の子弟、飯星ワルテル伸次連邦下院議員である。下元健吉元専務は「コチア青年ファミリー」という大きな人材群の遺産を残した。この貴重な群団の先途は洋々たるものがある。 

 コチア産業組合の下元健吉元専務は戦後の日系社会が勝ち組と負け組に二分されて混乱状態となった時、農業組合の指導者として、冷静に時局を掌握して組合員をリードして、組合内への混乱を回避した。
 戦後の日本は始めての敗戦と言う苦汁をなめ、混乱状態が続いた。特に農村における次男、三男対策は大きな問題である。一方ブラジルでは、日本人の農業後継者養成が急務となってきた。
 日本の農村の次男、三男をブラジルに呼び寄せ、その後継者に育てる。この画期的な下元構想のもとに、日本側の全国農協中央会の荷見安会長とブラジル側のコチア産業組合の下元健吉元専務が、ガッチリと手を結び、歴史的に前例のない、新しい型の移住事業が実現した。
 前後、移住再開とタイミング良く、日本側で選抜された青年達の第一陣、第一次、第一回の109名のコチア青年移住者が1955年9月15日サントス港に到着した。ことし55周年を迎えた。
 これに続いて第一次移住者が16回にわたり1519名。第二次が35回で989名、合計2508名の青年がブラジルの大地踏み、全伯のコチア産業組合員に配耕された。
 そこでは4カ年間の就労義務農年を経てブラジル農業を身につけ、独立に向かっての準備をした。そして、その殆どが独立自営に進み結婚、コチア組合の期待に応えて後継組合員になり、遂次事業基盤を固めてコチア組合はもとよりブラジル農業界発展のため貢献、また、地域社会でも多くのリーダーを輩出している。
 しかし、コチア青年の移住初期は、戦前移住者社会の中で戦後教育を受けた青年達はかなりの苦労をして「新来青年」と言う軽蔑の言葉も生れたくらいである。
 雄図半ばで倒れた者も居た。帰国した者もあったが殆んどが、次々と独立した。
 コチア青年は、着伯後、各地のコチア組合員農家に配耕されるが、その引き受け者(パトロン)によって青年の運命が左右される面が大きい。
 家庭的に待遇された者、低賃金労働者扱いされた者独立の時の支援なども千差万別、従ってスタート時点も一様ではない。
 恵まれたスタートを切った者は幸運だが、そうでない者の中でも事業を伸ばしている者もいる。 

出身別、来伯前の職業は…

 ちなみに、次の統計で日本の次男、三男対策への貢献は大きい事がわかる。
▼次男=37%▼三男=24%▼長男=14%▼四男=13%▼五男=7%。(コチア青年移住者の次、三男の比率は61%。
[出身県ベストテン]
①鹿児島=205名②熊本=164名③宮崎=98名④北海道=95名⑤長野=87名⑥福岡=83名⑦愛媛=74名⑧山形、宮城=71名⑨高知=69名⑩佐賀=68名。
[コチア青年の渡伯前の職業] 
▼農業=68%▼学生、青年隊=21%▼公務員=4%▼工業従事者=3%▼自衛隊=2%▼商業=2%