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コチアの思い出あれこれ=伊勢脇英世さん

特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 コチア産業組合の井上清一総務部長は、第2次世界大戦後はサンパウロ州の奥地、プレジデンテ・プルデンテ等でも倉庫主任をされたようです。 
 その頃は、産青連運動を強力に推し進め、農村青年の指導に力を入れていました。 
 それが本部勤めになったのは、コチア青年の早い組が独立しはじめ、事業問題や資金援助の面などで、山中移民課長1人では手におえなくなった頃のようです。 
 移民課は専務理事直属だったようで、下元専務なき跡をついだ大平さんも、日に日にふとる組合業務に忙殺されていたようです。 
 ハッカつくりや牧畜をやるのにはサンパウロ奥地手狭になり、マット・グロッソ州へ日本人の目が向き出した時分、井上さんも倉庫主任としてドラードス近辺で活躍しています。 
 第1次1回の遠田さん(福島県)も入植者の一人です。後年はコロニア・ピニャールに転住、彼の長女は私の長男の嫁(ミナス在)次女は山下治さんの次男の嫁(ピニャールで活躍中)。
 コチア青年が第1回大会を開催に当たり、まだ皆さん車を持ってない時代のこととて、近辺の連絡をとりやすい独立青年に呼びかけ何回も組合(ピニェイロス)の会議室を借りて会議をしたものです。
 組合内部の上層部では労働組合を立ち上げて組合相手に労働争議を起こすのではないかと、あらぬことを口走った理事さえいました。 
 こんな時に矢表に立ってくれたのが井上さんだったのです。「青年達の気持ちはもっと純粋」で、独立に当たって資金獲得や妻帯問題解決等、義務農年は終ったのだから独立して一働きも二働きもしたいと「彼等は正当な理由のもとに団結しているだけだ」と。 
 それなら個人的に組合員に独立すればいいじゃないかとの意見もありますが、当時はパトロンといえども大戦後のゴタゴタからやっと落ち着きかけた時分で借地している人も多かったのではないか。
 雇った青年の面倒をみるどころか、青年に面倒をみて貰っていたパトロンもかなりいたのではないか、組合も大変だった時代だったのでした。
 総務部に移民課、拓殖課、指導部ができ、課長はそれぞれ、佐藤実さん、田尻鉄也さん、伊藤さん達でした。借地で独立して頑張っている青年達に土地を、と田尻さんの活躍は目を見張るものでした。 
 指導課は総務の得意分野ですから、コチア青年のみでなく、二、三世青年の活躍の場を充実すべく「農協クラブ」を立ち上げ、正式な登録団体とし、組合が指導したが、活動には自主性をもたせました。 
 コチア青年もクラブ員にかなりの人数が所属したものです。だから、将来理事になる為の下敷きじゃないかと高級職員や理事達にケムたがられていたようです。 
 第1回青年大会は第1次1回の渡伯後7年目でした。 
 大会後は組合も積極的に援助してくれて、協議会の事務の大方は移民課の仕事になっていたのではないかと思います。  もっとも花嫁呼び寄せの書類の翻訳の仕事など青年個人では無理でした。
 大会は組合のジャグァレ倉庫の食堂で開催され、参加者は1200名だった。仕出し弁当でした。日本側からも荷見全中会長や家の光協会の宮城孝治会長も出席してくれ、この熱意を青年代表を日本へ送って諸問題を訴えればいい、全拓連も協力する、とアドバイスしてくれ、早速、山口、清橋(第1次2回)に訪日してもらいました。
 その後、毎年代表を送り、二世研修団も、花嫁代表も送るし、花嫁相談員も駐在してもらうなど、宮内庁、全拓連、家の光協会等には一方ならぬお世話になりながら協議会の活躍は特筆すべきでしょう。 
 ここまでコチア青年がやれたのは、第2次世界大戦後の世界全体の好景気に支えられた好運も有ったと思います。 
 55周年は過ぎ、60周年への第一歩は踏み出されました。