特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年
ニッケイ新聞 2010年10月23日付け
1967年10月14日に、ぶらじる丸で45日の航海を終えて、サントスに着いた。
埠頭には初めて会う義兄と実姉が出迎えてくれた。姉が自分の航海の時のことを思い合わせて、お饅頭を持って来てくれて、岸壁から投げてくれたのだが、残念、海に落ちてしまったことを今も鮮明に覚えている。
私達の時代には貨客船となっていて、船が航海に入れば毎日、洋食か和食を選べて、それこそ五星のホテル並みの接待を受けられて、贅沢三昧。一週間に一回は甲板でいろいろな名目でパーティーがあり、夜はダンスパーティが開かれ、ブラジルに移住して行く悲壮感は微塵も感じられない楽しい毎日だった。
農場に着いてようやく主人と再会出来た。私のブラジル移住は義兄の呼び寄せということだった。その為、花嫁移住の名簿に名前が無い。
実姉が日本を発つ前に二、三度、主人には出会っていた。真夜中を過ぎていたけれど、農場を案内してくれたとき、月が煌々と輝いていて、彼の自信に満ちた夢が一杯の情熱のこもった話を頼もしく聞き惚れた事が今も脳裏に蘇る。
新築中の住宅は未完成だったけれど、何とか住めるようになっていたので、私が着いて一週間後に結婚式を挙げ、近所の人に集まって貰って、祝福して貰った。
兄弟で力を合わせて、この広大なブラジルの大地で大きな仕事をしようということで、協同生活から始まった。が、矢張り無理があって、一年経って私達に長男が授かってから、兄から独立。兄達の農場からは500メートル程しか離れていない、カウカイアから3キロメートルと当時としては地理の便が良い所に土地を購入した。
その後、長女が自分達の若さ故の不注意から自宅で分娩が始まり、自宅出産をやむなくされ、一週間後になんとかクリニカ病院に入院させることができた。
ずいぶん後で、主人が話したことがあった。1キロ800グラムしかない早生まれの彼女を抱いて、保育器のある病院を救急車の運転手が親切にあちらこちらと探してくれている間に彼女の顔の色が紫色に変わっていき、もう駄目かもしれないと思ったと。
そして2ヵ月の保育室での間も、巷ではしかが流行したり、いろいろあったけれど、神の強いご意志でいままで元気に過ごさせて貰っている。今は良い夫に恵まれ、また2人の可愛いい子に恵まれて、子供の教育に毎日奔走している。
長男も早や厄年も無事過ぎて、良い伴侶に恵まれ、2人の可愛いい娘も授かり、やり甲斐のある事業に取り組んでいる。
次女は二つの大学を卒業後、努力を重ね、弁護士の資格を取得し、現在コチア市の裁判所前に事務所を開設し、5人で協同経営している。
主人は昔から仕事に打ち込む人で何かを始めると、とことん頑張る人で、養鶏業も屠殺場も作り上げるまで頑張り、コチア市にビルを一軒建て、現在は有名店舗に貸している。
ガソリンスタンドをカウカイアの市内に土地購入から始め、建築し、ガソリンスタンドの経営など丸きり素人だったけれど5年経営し、現在は賃貸している。
89年から着手した洋ラン栽培が95年にようやく軌道に乗り始めた。その5年間、私一人で3人の使用人を使いながら続けて、一人の手に負えなくなり、主人がガソリンスタンドの経営を辞め、ラン栽培に全力投球することになった。
92年に長女が日本に県費研修生でラボの仕事を習得して帰り、ランの苗を確保出来、長男が建築技師の資格でハウスの建築等お手のものということで、家族全員がラン栽培の経営に乗り出し、今は3カ所の農場にハウスを建て一年中途切れる事無く市場に胡蝶蘭を供給している。
主人の口癖は何でも一生懸命やっていればいつかものになる。そして彼の哲学、ゲートボールでも何でも一生懸命練習していけば良い成績に繋がる。ということで、知る人ぞ知る、彼はゲートボーラーとしてその名を知られている。
さて最後に自分の事だが、ブラジルに来てから35年間子育ての仕事に追われ、主人のように器用でないので、遊ぶ事など丸きりしないで、がむしゃらに働いてきた。
家族全員がラン栽培に取リ組み始めたのをきっかけに、自分の時間を貰うことが出来たため、自分の時間を社会にお返ししたいと04年にコチア青年連絡協議会に副会長の肩署きを頂いた。
05年には文協の副会長役を貰って、理事会の中で私以外に東山研修生の方と二人だけが一世ということで、理事会の議事進行はすべてポ語。救いは普段の会話はほとんど日本語を理解して貰えたことだった。
ポ語の個人指導を受けたり、パソコンを覚えたり毎日が緊張の連続だった。委員会等に参加してきたが今少しゆっくりしょうと考えている。