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ボリビアで生き抜いて~第34回県連ふるさと巡り~《5》=解散危機もあったオキナワ=入植55周年のサンフアンへ

ニッケイ新聞 2010年10月27日付け

 オキナワ第一移住地での交流を終えると、一行はバスで約40キロ離れた第二移住地へ。舗装道路は一転し、砂埃が視界をふさぐ土道だ。第二のヌエバ・エスペランサ校(島袋小百合校長)に到着すると、運動場で教師、生徒らが一行を待っていた。今年創立50周年。全校生徒120人のうち約3割が日系で、ほとんどが3世だ。
 生徒たちが「からす」などの唱歌で一行を歓迎。生徒を代表して井上文音さん(13)が「両国のことを学ぶのは私達にとってとても大切なこと。これからも勉強を頑張りたい」と日本語であいさつした。
 サンタクルスから移り、約4年前から同校で教える仲松紗生さん(28)は、「ここは日本語が通じるし、楽しいですよ」と話す。ここでも3月から沖縄県の派遣教師、与那覇慎也さん(33)が赴任している。
 移住地の広い空の下で記念撮影し、バスはさらに第三移住地へ。ここでも会館でカフェが用意され、地元の人たちに握手で迎えられた。
 同地在住の中村監事によれば、第三はサンタクルスから約31キロと近く、他の2移住地と比べて土地も良くなかったため低迷が続いたが、80年代以降サトウキビと大豆・小麦の多角経営で活路を見出してきたという。
 「誰が見ても解散という時もあったが、団結し、物事を一つ一つ解決しながらここまで来た。この気持ちをブラジルの人にも伝えたい」と中村さん。現在は第二、第三移住地からサンタクルスまでのアスファルト舗装実現のため、要請を続けているという。
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 オキナワ移住地での歓待の余韻が残る3日目、一行はボリビアのもう一つの日系移住地サンフアンを訪れた。
 サンタクルスから約130キロ離れたサンフアン(正式名=San Juan de Yapacani)は、移住地の面積が約2万7千平方メートル。サンタクルスを底とみて逆三角形を作ると、東がオキナワ、西がサンフアン。01年に市となり(行政機能は05年から)、二世の伴井勝美氏が市長を務める。
 同地でも日ボ移住協定が結ばれる以前の55年、民間ベースで砂糖黍と精糖工場の建設を企画した西川利通により最初の移住者14家族87人(通称西川移民、0次または試験移民とも呼ばれる)が入植。その後、1次から63年の17次をピークに、92年までに1600人あまりが入植した。炭鉱離職者が多かったこともあって長崎県出身者が多く、現在も4割以上を同県出身者と子弟が占める。
 悪路、水害、旱魃などの天災に悩まされた初期開拓の時代には多くの入植者が転出、「犬も通わぬサンフアン」と呼ばれるほどの辛酸をなめた同地。デカセギでの人口減少も経て、現在の日系人口は約700人。半世紀を経て、現在は米の生産を主軸に安定した運営を行なっている。それでも、移住地を通る48キロの街道がアスファルト舗装されたのはほんの8年前、02年のことだ。
 「サンフアン日本人移住地」と大書された門を通って移住地へ入ると、すぐに同地の日ボ協会会館へ到着。入り口には地元の人たちが並び、ふるさと巡り一行を大きな拍手が迎えた。(つづく、松田正生記者)

写真=ヌエバ・エスペランサ校の生徒、教師たち/ふるさと巡り一行を迎えるサンフアンの皆さん