ニッケイ新聞 2010年10月28日付け
05年に入植50周年を祝ったサンフアン移住地。昨年は日本人移住110周年式典出席のため同国を訪れた常陸宮同妃殿下もオキナワ移住地と同地を訪問された。
日比野正靭会長(71)は、「サントスからノロエステ線でボ国へ向かう途中、沿線の日本人から差し入れを受け、『そんな遠いところ何もないから、ここに残りなさい』とありがたい言葉もいただいた。それを振り切って移住して現在がある。ブラジルは農業研修でも訪問し、皆に世話になっている。その万分の一でも恩返しできれば」と一行を歓迎した。
敷地内にある慰霊碑のそばには05年までの物故者270人の名を刻んだ碑が建つ。一行は最初に慰霊碑を訪れ、黙祷。日比野会長、与儀会長ほか、県連の園田、山田両副会長と参加者を代表して多川富貴子さんが花を捧げた。
その後は移住地側の趣向で、7ヘクタール分を保存している入植当時の原始林、資料館や、デイサービスの様子などをそれぞれ見学した。
街道が未舗装の時代は、雨が降れば馬も通れぬ泥道に。57年に入植した日比野会長は、「59年までは道もなかった」と振り返り、02年に日本の援助でアスファルト舗装が完成した時は「やっと文化の世界に入ったと感じた」。それまでは、年に一度川の上流から砂利を運んで敷いていたという。
入植当時は18歳。「農業は上手くいかないし、借金のある人も多かった。どうなるだろうと思った」が、「不便だったけど、当時の日本も貧しかったし覚悟して来た。広い土地があるから、自分で拓けば何とかなると思ってやってきた」と話す。
80年代後半からのデカセギブームでも、当時の人口1200人のうち約400人が日本へ向かった。いま10年20年暮らした日本から、サンフアンに戻ってくる人もいるそうだ。
「残った人ががんばったから今のサンフアンがある」と力を込める日比野会長。経済的な余裕が出てきたのは「この15年ほど」だという。今年で入植55周年。「二世の時代になってやり方は変わっていくだろうけど、極端な変化はないと思う。三世、四世も日本語が大事という機運があるから大丈夫でしょう」と語った。
その後は地元の青年がバスに乗り込み、移住地内を見学。記者のバスでは農協職員の米倉アルフレッドさん(26、二世)がサンフアン農業の現状を説明してくれた。
陸稲から始まった同地の農業。現在サンフアン農牧総合協同組合(CAISY)では103人の組合員中70人が養鶏に従事。一人約2万羽を飼育し、卵はボ国市場の約7割を占めるという。
米作もブラジルのカンピーナス、サンジョアキンなどの試験場と提携して品種改良を続け、00年ごろに水田化。今では7千ヘクタールで栽培し、ヘクタール当たり8トンを収穫する。オキナワの小麦のように、同地は米の中心地として評価され、「全国米の日」イベントも開催されている。
永年作物でも、ポンカンなど柑橘類に加え、国内で唯一マカダミアナッツを栽培。年400トンを生産し、欧米にも輸出しているそうだ。
見学を終え、バスは交流会場の公民館へ。(つづく、松田正生記者)
写真=一行を歓迎する日比野会長/慰霊碑に献花し先人を偲ぶふるさと巡り一行