ニッケイ新聞 2010年10月29日付け
午後1時ごろ始まった交流会には約300人が参加。牛、豚、鶏、野菜など地元の生産物、ボーガという名の川魚やマスの刺身など、婦人会が腕によりをかけた料理がずらりと並んだ。
「これからもボリビアとブラジルの日系人で交流を深めたい」と与儀会長が感謝のあいさつ。澤元静雄副会長の発声で乾杯し、食事をとりながら話を弾ませた。
舞台では地元の青年によるYOSAKOIソーランや日舞愛好会「美藤会」の大人、子供たちによる踊り、「あおぞら合唱団」の歌など次々と披露され、オキナワ移住地でも演奏された琉球民謡も盛り上げた。
7地区からなる連合婦人会は会員約160人。昨年常陸宮ご夫妻を迎えた時にも料理の準備に奮闘した。現在は日系人の妻も入会するようになっているという。「仲良くやっていますよ」と前会長の近藤智美さん(49)。同地で生まれた近藤さんは、「昔は蝶々や猿、ヒョウなんかもいて、地平線も見えない原始林。今は自然が遠くなりましたね」と話す。
現会長の大塚奈緒美さん(58、長崎)は55年に入植した西川移民の一人だ。当時3歳。「着いた時は蚊が多くて『日本に帰ろう』と泣いた」そうだ。「ノートも鉛筆もなくて、日本から持ってきたノートを何度も消して使った」。いま「住み慣れると、ここが一番いい」と笑顔を見せる。
日ボ協会の事務局で約20年間勤めた本多桓三郎さん(72、長崎)。兄弟4人で62年に入植した時、小さな川に橋はなく、車で渡っていたという。「当時は何もない。入った時とは雲泥の差」と本多さん。「70年代初めまでは活気がなかったが、その後米や大豆、養鶏で勢いがついた。今は安定しているね」と表情を和らげる。
「今は良い所になった。苦労したおかげですよ」と話すのは、56年に三次で入植した石沢志津江さん(85、愛知)。夫と10歳以下の子3人での移住だった。
21世帯がサンタクルスの駅に着いた時は、荷物を運ぶ20台のトラックを見つけるまで3日間待ち、その間は駅の地面で寝て過ごしたという。「道も何もない。車がエンコして、木の上、下を通って着いたら、土地の区切りもなかった」
「でも来た以上は頑張らんとしかたない。腰が抜ける思いで働きましたよ」。移住地を出た人のことも「無我夢中で、後から知った」という。「子供を早く一人前に」との思いで自ら働き、学校を出した。「体が丈夫だったからなんとかなったんでしょうね」
14人の孫とひ孫、今も自分の食べる野菜は作るという石沢さんは「いい所になった。苦労したけど、今は幸せ」とにこやかに話した。
「昔このあたりは殆ど原始林のままでね」、会館の外で本多さんが周りを見やりながら話す。現在は乾燥した気候になっているが、当時は「乾季でもすねぐらいまで水があった」という。半世紀後の今その面影はなく、隣接する学校では幼稚園の校舎を新築していた。
会館では全員参加の炭坑節、坂本九の「明日があるさ」に合わせて踊りの輪がつながる。
「ふるさと」を合唱し、全員で記念撮影。会館の外で一行を見送る人のどこかから、「お互い頑張ろうね」という声が聞こえた。
バスはサンタクルスへの帰途へ。街道を進む窓から移住地の墓地が見えた。入植半世紀あまりかけて勝ち取って来た現在の平穏。その礎となった先人たちは、ボリビアの地で静かに眠っている。(つづく、松田正生記者)
写真=サンフアンの人たち、ふるさと巡り一行で記念撮影