ニッケイ新聞 2010年12月11日付け
はじめにバストス日系文化体育協会と汎パウリスタ連合日伯文化協会の概要に就いて話を進める。
バストス日系文化体育協会の始まりは、1930年にバストス会として発足する。戦前は、ブラジルの他の日系のコミュニテイ同様の活動をしていた。戦後、1953年に結成された日本人会は、他の地域の日本人会とは少しおもむきが違っていた。
バストスでは終戦直後に日系社会を二分した勝ち負け騒動で、日本の敗戦を認識し、ブラジル国の法令順守の思想を持つ、認識派と呼ばれるグループによって組織されていた。その後日伯文化協会と名称は変わったが、その思想の影響は、1990年に会長が二世に代わるまで続いた。
現在の体制は過去に見られた枢軸国としての負の遺産はなく、ブラジル国民としての自負がある二世によって運営され、自由な体質で活動していて、非の打ち所がないほど理想的に会が運営されている。
汎パウリスタ連合日伯文化協会は、1968年日本移民60周年記念に皇太子殿下のブラジル訪問を機に発足した。当初は17の地域の支部による文化協会の連合体であったが、後に14支部になる。バストスを除く汎パ連合会の体質は、日本文化至上主義で、思想的に硬く日本語教育に対しては、日系人の必須事項と考えられていた。歴代の会長は多分に右翼思想の持ち主が多く、その影響は1990年代に会長が二世に代わるまで続いた。現代のパウリスタ連合日系文化体育協会にはその影響は全く見られない。
私は1964年バストス連合青年団団長を退任し、1年後の1965年に文協役員に推薦された。それから45年間、文化協会内で、バストスの日系コロニアの日本語教育の推移を見る事ができた。1968年から、汎パウリスタ連合日伯文化協会が結成された。その役員として、沿線の17都市の日本語教育の変革状況も見られた。この機会にバストスとパウリスタ沿線の日語教育について、改めて過去を見つめて検証し、未来に展望が少しでも開けて、今後の日本語教育の進む道が見えてくればと思っている。
1960年代は、未だバストスは日系色の強い町で、いたる所の商店に日本語の看板があった。文化、政治と色々な面で日本的な影響が色濃く残っていて、特に日本語は殆んどの家庭で日常に使われる事が多かった。今の60代以上の二世が日本語の会話が堪能なのをみても判る。何処の家庭でも言葉をはじめ日本の生活習慣が身近な存在だった事を物語っている。
しかしこの頃より、ブラジル政府による義務教育も充実してきた。特にバストスは日系人の集団地で、一家の家長は一世中心で子供達も生活の大部分が日本語であった。その為子供達のブラジル語のレベルが低く、ブラジル学校の先生が、家庭内での日本語を極力使わないよう注意していた。それによって子供は日本語を話す機会が少なくなっていた。
この時期のバストスの日本語教育面を見ると、学校と呼ばれるような所はなかった。何箇所かの日本語の私塾があったが、塾に月謝を払ってまで、子供に日本語を習わす家庭は少なかった。むしろブラジル学校に関心があったようだ。
現在のバストスでは60代以上が、日本語の達者な方が多いのとと比べると、50代半ばから40代にかけて日本語の会話が下手なのをみても判る。この時期はまだゼツリオ・バルガス時代の14才未満の外国語教育禁止法令は存在していた。その事がバストスでは低学年の日本語教育普及の障害の一つとなっていた。更に戦中戦後の勝ち負け紛争の後遺症も残っていた。
1953年に、旧日本人会が組織された。歴代の日本人会役員の大半は戦中戦後に認識派(敗戦論者)と呼ばれる方に属していた。ブラジル国に対して、法令順守思想が色濃く残っていた。その為、子弟の日本語教育の対応は低調であった。例を挙げると、バストスの文協会館建設案は、最初は、明治生まれの一世の日本文化至上主義者の長老達の提唱により、日本語学校の校舎を造る事であった。その後総合会館と設計も変わったが、この会館内に2室の日本語教室が造られた。
会館完成後の管理団体で有る文協は、かつての認識派の流れを汲む、大正、昭和生まれの役員達であった。完成した会館は色々なイベントには使われたが、2室の日本語教室は日本語の授業に使われたことはなかった。日本語教育に対しても、文協はブラジル政府に対する懸念から、日本語普及会と呼ばれる別団体を組織した。その普及会をかねてからバストスの日語教育を憂いていた、明治生まれの真木諭吉氏を普及会会長に起用した。そして普及会による日本語学校の経営を独自に当たらせる事にした。
しかし、学校とは名ばかりで、校舎も無く、先生も捜す必要があり、何事も一から始めなければならなかった。表向きは文協の傘下であったが、文協の援助は消極的であった。全て真木氏によって運営されていた。活動資金を始め教室が無いので、病院の空き室とか、企業が使っていない部屋を借りたり、転々と教室を移動しなければならない状態であった。
普及会長の真木さんは、再三会館の教室を使わせて貰うべく交渉をしたが、文協の許可は下りなかった。真木翁の努力は大変なもので「もし文協内での授業が違法であって問題が起これば自分がカデイアに行くから」とまで言って頼みこんだ事もあった。それでも会館内の2教室は日本語の授業には、使われる事はなかった。
1975年に文協は世論に押されて、やむをえず市街地より少し離れた場所に、日本語学校の校舎とは名ばかりの、質素な2教室を造った。生長の家の会館の隣接地で、日本語の授業が恰も宗教活動の一環であるように装ったのである。もし真木翁がいなかったら、この時点でバストスの日本語教育は無くなっていたかも知れない。(つづく)
宇佐美宗一 (うさみ そういち)
大阪府生まれ。56年にバストス移住地に入植。連合青年団団長などを務め、現在はバストス日系文化体育協会日本語総務。40年以上同地で旅館を経営する。73歳。