ニッケイ新聞 2011年1月29日付け
「大丈夫か?!」。ノヴァ・フリブルゴ日伯分化体育協会の渡辺求会長は災害発生直後から120日系家族の安否を心配していた。災害発生から3日間のうちに大部分の家族の無事が人伝えで確認できたものの、10家族と依然連絡が付かず、会長自らが一軒一軒を訪ねて歩き、そう声をかけた。
事故から8日後の19日、最後に無事を確認したのは山間部の集落に住む樋口洋さん(山梨)夫婦だった。途中の道路が土砂でふさがり、孤立しその場所ヘはリコプターで向かった。食料を運んだ渡辺会長は「本人達は自分達が孤立していた事に気が付いていなかった」と夫婦の元気な姿に安堵の表情を浮かべる。樋口さん宅へ向かう道は24日にようやく復旧工事が始まった。渡辺会長は「これでもう安心だ」と胸をなで下ろした。
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同市への日本人入植は1927年とかなり古い。40〜50年年代はトマト中心の野菜栽培、60〜70年代はカーネーション、バラ、菊などの花卉栽培で日系社会は栄えた。農家が9割、町の住民が1割だった昔に比べ、現在ではその数が逆転している。
76年に文協が創立されてから、今回の災害で中止された新年会のほか、運動会、日本祭りなどのイベントを開催してきた。「日本フリ祭り」と地元で知られ、市が日本の日と定めた4月29日前後の日本文化週間に合わせ、数年前より市の協力を得て大々的に行われていた矢先だった。
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全家族の安全を確認し終えた渡辺会長は、「日系家族は、どの家族も食料を蓄えていて1週間程度は家から出なくても大丈夫なようだった」と備えの良さに気付く。妻・明枝さん(三世、59)が「車庫に泥や水が溢れて大変」と嘆いていたが、「自分の家の片付けが一番最後になってしまった」、そう笑う渡辺会長の額には、他人を気遣って走り回った後の気持ちよい汗の玉が光っていた。家財や家の一部が破損した日系家庭は約20軒を数えたが、いずれも人的被害はなく事なきを得た。
23日午前9時、サンパウロ市から運ばれた支援物資の到着の知らせを受け、一行は受け渡し先の地元慈善団体GPH(Grupo de Promocao Humana)へ向かった。途中、被害の大きかったコンキスタ区のセアザで軍警特殊部隊(Bope)がサンパウロ、リオから届いた支援物資の配給にあたっていた。家財道具を失った人々が、家族に必要な物を求めて必死に服の山を掻き分けていた。
GPHでは、一行を待ちわびていたボランティアたちが到着した物資を次々と運び出しては手際よく分類していった。GPHでは他の地域のように取りに訪れた人に物資を配布するのではなく、登録された被災者家族に物資をきちんと振り分けては直接各家庭まで届ける。GPH職員から現地の様子を聞いた菊地義治援協副会長は「調味料のない被災地では味付けのあるカップラーメンなども重宝すると言われた」と喜び、離乳食など児童への支援や薬がまだ不足しているとも聞き「援協で支援できるか検討してみる」と話していた。
無事に物資引渡しの任務を終えた援協役員らは、同日午後ようやくサンパウロ市への帰途に着いた。
後日、渡辺会長に連絡を取ったところ、「GPHから感謝の声が多い」と感激する声が聞こえた。電話口から「サンパウロ市とリオの日系団体から送られてきた物はよく選ばれていて実用的なものばかり。必要に応じた物が届けられた」と、日系社会へのお礼の言葉が響いた。(つづく、長村裕佳子記者)
写真=セアザで支援物資を配給するBope/GPHに届けられた支援物資を前にサンパウロ市、地元関係者